2025.5.26

「すべての人のための美術館」。台湾・新北市美術館が目指す未来とは

4月、台湾最大の直轄市・新北市に「新北市美術館」が開館した。多様な歴史と文化が交差するこの地に誕生した美術館は、「すべての人に開かれた美術館」という理念のもと、地域の暮らしと結びついた文化活動を展開する。開館準備を率いてきた頼香怜(ライ・シャンリン)館長に、そのビジョンと実践を聞いた。

文・構成=栖来ひかり

鶯歌(おうか)に位置し、桃園国際空港および台北市中心部からともに約30分の距離にある新北市美術館 写真提供=新北市美術館 撮影=濱田英明
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 4月26日、台湾北部の新北市に「新北市美術館」がオープンし、台湾内外で注目を集めている。台湾で最大の人口を抱える新北市は、大航海時代にスペインやオランダの支配下で国際貿易港となった淡水エリアがあり、また、近年は首都圏として多くの外国人労働者が流入するなど、歴史においても現代においても多様なバックグラウンドをもつ人々が交錯する場所である。

 ここに新しくできた美術館は、地域社会や国際的なアートシステムのなかで、どのような役割を担っていくのだろうか。2019年より開館準備を進めてきた頼香怜(ライ・シャンリン)館長にインタビューした。 

頼香怜 画像提供=新北市美術館 撮影=林政億

文化の交差点としての新北市

──新しく美術館がオープンした新北市とは、台湾の社会や文化においてどのような役割や特色をもつ都市ですか?

 新北市は台湾北部に位置し、約400万人が暮らす台湾最大の直轄市であり、首都圏を支える重要な役割を果たしています。地理的には台北市を取り囲み、都市から山、河川、海と多様な風景が広がり、そうした地理特性とともに独自の歴史と文化を育んできました。いわば昔から、伝統と現代、ローカルと国際が交わる「文化のハブ」ともいえる存在であり続けてきました。 

──ここに美術館ができることで、どのような利点があるでしょうか。 

 じつは新北市では、現代アートにおいては1990年代からキュレーター制度の導入や材料でジャンル分けするのを廃止するなど、先進的な改革が行われてきました。そうした意味で、新北市は台湾の現代アートを中央から地方へと開いていく先駆者でもあったのです。

新北市美術館 写真提供=新北市美術館 撮影=濱田英明

──新北市美術館の立地として、三鶯(さんおう)地区が選ばれたのはなぜでしょうか?

 新北市の南西に位置する「三鶯地区」は、三峡(さんきょう)と鶯歌の2地域からなるエリアです。ここは清代からの歴史ある集落や三峡祖師廟といった有名な宗教施設を持ち、陶磁器や藍染といった伝統工芸で広く知られています。

 とくに鶯歌は「陶都」の異名も持ち、日本統治時代から台湾の陶磁器産業の中心地として栄え、家内工業から産業集積まで独自の生産体制を築いてきました。

 いっぽうで、三峡には山に囲まれた美しい景観と歴史ある街並みが残され、手仕事と暮らしが息づく地域文化が色濃く残っています。こうした背景から、三鶯地区は「地域文化」と「文化の可能性」が交わる戦略的拠点として注目されています。新北市美術館が建てられたのは、鶯歌渓と大漢渓というふたつの河川が合流する場所で、自然と都市とが交差する場として、新北市が文化政策を南へと広げ、地域に根ざした文化拠点となります。

──この立地は、地域文化・市民文化と自然の豊かな土壌を重視した選択ということですね。

 その通りです。これは「文化は日常の中にある」「美術館は都市そのもの」という理念の体現であり、Museum for all──すべての人に開かれた美術館として、年齢やバックグラウンドを問わず誰もが訪れ、ともに学び、つくり上げていく場を目指しています。

 美術館は、新北市が主導する「三鶯文創整合計画」の中核として、陶芸博物館、陶器の職人街、歴史ある街並み、鶯歌駅や周辺の観光資源、水辺の風景とないった自然と連携しながら、空間・産業・文化・暮らしを総合的に結びつけていく文化エンジンとなるでしょう。そして、「街全体が美術館になる」というような文化ネットワークを築く役割を担っていくと思います。

川辺という立地に呼応し、河床の地形にインスピレーションを受けている新北市美術館の建築 写真提供=新北市美術館 撮影=濱田英明

地域に根ざし、世界へ開く

──賴館長がこれまで上海外灘美術館など様々な国際的な美術館の開館に関わってきた経験は、新北市美術館にどのように生かされていますか。

 そうした経験を通じて、美術館は作品を展示・収蔵するだけの場ではなく、社会との対話・知の創造・文化の共創を実現する「公共空間」であるべきだと深く実感しています。新北市美術館の運営戦略は、こうした理念のうえに進めています。それは「傾聴と応答の美術館(attentive museum)」を目指し、地域と世界をつなぐ開かれた文化の場を築くということです。

 2019年に開館準備室を設立して以来、美術館は「地域に根ざし、世界へ開く(local roots, global reach)」という理念を軸に歩んできました。

 地域に根差した活動としては、学校とのSTEAM教育(*)連携や三鶯エリアでのフィールドワーク、住民との共同創作などを通じて地域アイデンティティの育成と文化的共有を進めています。また、ワークショップやまち歩き、地域ガイドも開催し、地域に根ざした学びと参加型のアート体験を深めています。

「基進城市」展に参加したアーティスト、エイサ・ジョクソンとヴェヌリ・ペレラによるパフォーマンス《掃地姐妹(Sweeping Sisters)》

 国際的な展開としては、設立初期からアジアのキュレーターやアーティスト、芸術機関とのネットワークを築いて、国を越えた対話と連携を重ねています。とくに「トランスローカリティ(translocality)」という視点をキュレーションやコレクション方針の中核に据え、グローバルな文脈のなかで多様なローカルの知を表現したいと思っています。

 さらに、美術館の戦略形成と国際的な認知度向上のために、各国の一流キュレーターや館長からなる国際顧問団も設置しました。台湾で初めて導入された制度で、先駆的な試みです。目的は、多様な視点を取り入れて国際的な対話と連携を深めることにあります。初代メンバーには、アジア・ヨーロッパ・アメリカを代表するキュレーターや館長が名を連ねています。

*──STEAM教育とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、芸術(Art)、数学(Mathematics)の5つの分野を統合的に学ぶ教育のことを指す。

──顧問団のメンバーには、日本・森美術館の片岡真実氏も加わっていますね。

 ほかにも、ナショナル・ギャラリー・シンガポールのパトリック・フローレス氏、ローマのイタリア国立21世紀美術館(MAXXI)元芸術監督で独立キュレーターのホウ・ハンル(侯瀚如)氏、ロサンゼルス現代美術館のクララ・キム氏、オランダNieuwe Instituut館長のアリック・チェン氏など、国際的に高い評価を受ける専門家たちが、定期的な年次会議や個別のアドバイスを通じて、展示・収蔵・運営戦略における実践的な提言を行っています。

新北市美術館の開館記念セレモニーの様子

──「地域に根ざし、世界へ開く」という新北市美術館の基本理念を体現するような試みですね。

 その通りです。片岡館長が森美術館で培った運営や、「六本木アートナイト」といった都市との連携ノウハウは、美術館と地域との関係性を再考するヒントとなっています。また、ホウ・ハンルのように複数の文化を横断するキュレーション実践は、「ローカルとグローバルの融合」に向けた重要な視点を提供してくれます。

 こうした顧問団の設置によって形成された国際的ネットワークが今後、国際共同展覧会や研究プロジェクトの推進をサポートしていくでしょう。また、美術館の専門性や国際的な認知度を向上させ、世界的なアートのエコシステムのなかに新北市美術館が存在感を放つ道筋を描くことにつながります。

注目の開館企画

──新北市には、多くのアーティストも居住しています。ローカルのアーティストとの協働にはどのようなものがありますか?

 新北市は、多彩で継続的に創作活動を行う優れたアーティストを長年にわたり多く育んできました。工芸、写真、水墨画、パフォーマンスアートから現代の越境的な実践まで、非常に幅広い表現領域がみられます。新北市美術館では、設立準備段階から「提煉時光」というアーティストインタビュー映像のプロジェクトや「前輩芸術家研究計画」を始動し、地域のアーティストたちの創作の歩みや文化的背景を体系的に整理し、今後の収蔵や展覧計画の基盤を築いてきました。

開館展「『往来/照見』典藏研究展」の展示風景より、張照堂「幽黯微光」シリーズ(1977-84) NTCAM Collection. Courtesy of NTCAM, photo by Anpis Wang

 こうした取り組みは、開館展にも色濃く反映されています。「『往来/照見』典藏研究展」では、板橋(バンチャオ)出身の写真家・張照堂(チャン・ザオタン)による「幽黯微光」シリーズを紹介しました。1977年から84年にかけて北部鉱山地域(九份、三峽、瑞芳・猴硐)で撮影されたもので、鉱夫たちの労働や日常を鮮明に写し出しています。なかには、画家の洪瑞麟(ホン・ルイリン)が坑道でスケッチをしている貴重な姿も記録されています。

 また、「新店男孩:Don't Worry, Baby」では、新北市を拠点に活動するアートユニット「新店男孩」と新メディアチーム・XTRUXが共同制作を行い、ゲームエンジンや没入型映像、伝統的な素材を融合させ、新店溪流域の生活や地誌を新たなアート体験として描き出しました。

──アーティスト・イン・レジデンスなどの取り組みはどうでしょうか。

 2024年からは、地域の知識とグローバルな動きを結ぶ研究テーマに取り組むアーティストを招き、2023年には「Art Camping:出発!大地でアートと冒険!」という野外共創プロジェクトを実施しました。環境教育と芸術を掛け合わせ、アーティストと地域住民の協働によって、アートと日常の新しい関係を築いています。

 このように、地域共創にまつわる多様な取り組みを通じて、新北市美術館がたんなる展示施設ではなく、創作を支え、コミュニティをつなぎ、地域文化への誇りを育む「すべての人のための美術館」という理念を実現しています。 

「基進城市」展にて展示されたヤン・ヘギュによる作品《Cittadella》

──これから注目してほしい、日本の読者が足を運んでほしい展示について詳しく教えてください。

 開館展では、「『往来/照見』典藏研究展」をはじめとして、新北市の文化発展を振り返る展示が行われました。また、「基進城市」展ではアジアの都市化を背景に、産業や労働の問題を探求し、「新店男孩:Don't Worry, Baby」ではアーティストの生活から出発した越境的な創作を紹介。「再自然不過的事」では、全年齢層の参加を歓迎するアートのかたちを提示しました。今後も、地域と国際をつなぐ芸術交流や、ジャンルを超えた展覧会の推進に取り組んでいきます。

 下半期には、1990年代の台湾前衛芸術の展開を再考する「関係場域:90年代新北文化地景重描」展や、芸術と建築の関係を再考する「建築の癒しと恐れ」展などを予定しています。

 これらの展示は、私たちが芸術、社会、教育に向ける関心を反映したもので、日本の皆さまにも台湾の現代文化の文脈を理解していただく重要な窓口になることを願っています。