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2026.10.11

[特別寄稿]山本浩貴:現代アートにおいて国旗を損壊することは何を意味するか──私が国旗損壊罪法に反対する理由

2026年8月に施行された「国旗損壊罪法」は、その内容から表現行為への萎縮効果が懸念されている。こうしたなか、今夏、高知県立美術館のコレクション展で柳幸典の《ヒノマル・イルミネーション》が展示された。文化研究の山本浩貴による本稿は、同作を出発点に、イギリスのブラック・アーティストの作品などを引きながら、現代アートの文脈から国旗損壊の意味を考察し、表現の可能性を狭める新法に対して連帯して反対の意を示す理由を記す。 ※10月12日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=山本浩貴

柳幸典《ヒノマル・イルミネーション》(1992) 高知県立美術館蔵 撮影:中島健藏 ©Yukinori Yanagi
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1.

 2026年8月13日、日本国旗の損壊を対象とする処罰規定が初めて明記された「国旗の損壊等の処罰に関する法律」(以下、「国旗損壊罪法」)が施行。第二条に、こうある──「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する」。

 これに対する主な論点は2つ──「著しく不快又は嫌悪の情」、「公然と」という文言をめぐって。まず、人が「不快」や「嫌悪」を催している(しかも「著しく」)かどうか、誰が、どのような基準で判断するか不明瞭な点。そして、国旗損壊が「公然と」なされたか、何を以って決定されるかも曖昧だ。よく指摘される、これらの論点は本稿では繰り返さない。

柳幸典《ヒノマル・イルミネーション》(1992) 高知県立美術館蔵 撮影:上野則宏 ©Yukinori Yanagi

 さて、柳幸典の《ヒノマル・イルミネーション》(1992)が先月まで高知県立美術館で展示されていた(コレクションによる特集展示 特集Ⅱ「ヒノマル・イルミネーション」、7月19日~9月22日)。同館所蔵作品の《ヒノマル・イルミネーション》は、これまでも定期的に披露されてきた。ゆえに、この展示はとくに国旗損壊罪法成立のタイミングで企画されたわけではないと思われる。とはいえ、この法律がアーティストや美術館に委縮効果を及ぼす懸念も指摘されている。特定の表現や展示を躊躇させる可能性だ。であれば、このタイミングで《ヒノマル・イルミネーション》が「通常通り」展示された意義は小さくない。

 《ヒノマル・イルミネーション》は奇しくも8月15日に故障し、9月3日に復旧。その2日後、私は高知を訪れた。そのときに同行した『美術手帖』編集長の岩渕貞哉さんから、「《ヒノマル・イルミネーション》を起点に、国旗損壊罪法について現代アートの文脈から論考を書く」依頼を受けた。本稿は、こうした背景から書き始められている。

故障後、消灯した状態の《ヒノマル・イルミネーション》展示風景(2026年8月17日撮影) 写真提供:高知県立美術館

 当初、タイトル通り、「現代アートにおいて国旗を損壊することは何を意味するか」について議論するつもりでいた。その議論をまとめるなかで、結局、サブタイトルのように「私が国旗損壊罪法に反対する理由」を述べていることに気づいた。

 ちょうど本稿を書き始めたとき、美術評論家の暮沢剛巳が「Tokyo Art Beat」で論考「私が『国旗損壊罪法』に反対する理由──日の丸を描いてきた美術の側から」を発表した。すでに暮沢も賛同者に名を連ねた美術評論家連盟有志の共同意見「表現の自由を制約する国旗損壊罪の新設に反対します」が公開されており、次いで国際美術評論家連盟(AICA)も作品の検閲につながるとして同法の廃止を求める声明を出した。

 アート界──そのようなものがあれば──があらゆる点で意見の一致をみる必要はないし、多様性という意味では、そうあるべきでないと私は考える。しかし、今回の事態は例外だ。国旗損壊罪法は表現行為の可能性を狭めるゆえ、連帯して反意を示すべきだと思う。そのため、本稿は暮沢論考とは異なる関心と視座から書かれるが、連帯の意を込めてサブタイトルとして踏襲した。

2.

 《ヒノマル・イルミネーション》はアーティストの柳幸典が1992年に制作した大型のインスタレーション。日の丸の形に配置されたネオン管が、明滅を繰り返しながら旭日旗、日章旗、日食などに変化する。機械的反復やネオンの人工性は無機質な印象を与え、国家の虚構性や非永続性を示唆しているように感じられた。

 《ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム》(1990)や《バンザイ・コーナー》(1991)といった作品を見れば、柳が国家やナショナリズムといった対象を批評的かつユーモラスに脱臼させようとしてきたのがわかる。また、《アーティクル9》(1994)に示されるように、彼自身の政治的イデオロギーも明白だ。少なくとも、私にはそう思われる。

 だが《ヒノマル・イルミネーション》だけを取り上げたとき、「右派と左派」という二項対立──有効性を失いつつある対立軸──のうち、どちらのイデオロギーに与しているかは自明でない。少なくとも、即時的・一義的に決定することは困難だ。とくに戦時中のアジアにおける帝国主義的侵略の主体である大日本帝国を象徴する旭日旗の援用は、左派的な目線からすれば危うさを伴う。事実、この作品は両翼からの毀誉褒貶にさらされてきた。

 20世紀に世界的な国民国家体制が確立されて以来、国旗は国を象徴する記号であり続けてきた。ベネディクト・アンダーソンが国家は「想像の共同体」だと喝破した後でもなお、そうである(ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体──ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、2007年)。現代アートの作品でも、様々な仕方で国旗が使われている。戦後美術史を例にとれば、ジャスパー・ジョーンズの《旗(Flag)》(1954)はアメリカ国旗を忠実に再現した絵画。ポップ・アートの先駆けとされる同作の美術史的意義は、しばしば「日常的な素材」をアートに取り入れた点であると説明される。このことは、私たちの多くにとって、国旗が身近なものであることをよく示している。1993年にヴェネチア・ビエンナーレで発表された柳の《ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム》も、アート界で世界的に知られる国旗を用いた作品だ。

 だが、その「使われ方」は非常に多様であった。左右を問わず、明確なイデオロギー性をはらむ作品は数多くある。他方、《ヒノマル・イルミネーション》のように、一見しただけでは国家を批判しているか賞賛しているか不明瞭なものも多い。暮沢も言及する小早川秋聲の《國之楯》(1944)──「英雄的な死を讃えるというより、敗戦国の象徴と死者の鎮魂を重ね合わせた日の丸の扱いに賛否が分かれそうな作品」(暮沢)──も、そのひとつだ。すぐに付け加えると、はっきりとした政治的主張を含む作品が、それだけで「劣る」と言いたいわけではない。

 いずれにせよ、時に挑発的・露悪的な仕方で鑑賞者の複雑な思考を促すのは現代アート作品の特徴のひとつだ。国旗損壊罪法は、こうした豊穣な両義性を消失させるおそれが大いにある。たしかに、この法律は自国批判の作品を検閲する意味で表現の自由を侵害するものだ。だが同時に、それは鑑賞者の思考を刺激し、撹乱し、拡張する両義的表現の余地を大きく狭める危険をもはらんでいる。国旗損壊罪法が現代アートの複雑性の縮減に立脚していると私が考える理由だ。それは同法に反対する理由でもある。

3.

 冒頭の問いに戻る。そもそも、現代アートにおいて国旗を損壊することはどのような意味をもつのか。当然、その意味はひとつではない。とはいえ、しばしばアーティストが国家──その政策、そこで発生している事象──を批判し、抗議するために作品のなかで国旗を損壊してきたのは事実だ。

 文化研究者のポール・ギルロイは著書『ユニオンジャックに黒はない』(1987)でイギリス社会が歴史的に黒人コミュニティを周縁化してきたことを批判し、差別的な人種政治に抵抗する芸術や音楽の可能性を考察した(ポール・ギルロイ『ユニオンジャックに黒はない──人種と国民をめぐる文化政治』田中東子・山本敦久・井上弘貴訳、月曜社、2017年)。ギルロイはアンダーソンが明らかにした国家の構築性は認めつつ、その議論からは国家が「どのように」構築されたのかについての検討が抜けていると指摘する。国家の構成員に誰が包摂され、誰が排除されているのかについての検討だ。

エディ・チェンバース《国民戦線の破壊》(1979-80) Presented by Tate Members 2013 © Eddie Chambers Photo © Tate

 ギルロイやスチュアート・ホールら研究者との相互的影響関係のなか、イギリスのブラック・アーティストは作品を通じて「ユニオンジャックに黒がない」ことを批判してきた。エディ・チェンバースの《国民戦線の破壊》(1979-80)は4枚のパネルからなるコラージュで、鉤十字の形をしたユニオンジャックが解体されていくイメージを示す。チェンバースは英国旗のユニオンジャックをバラバラにし、ナチス(すなわち全体主義)を象徴する鉤十字のかたちに再構成した。4つのパネルが左から右に進むにつれ、その鉤十字は次第にほつれていき、最後には旗や鉤十字として認識できないほどに散逸した切片だけが残る。

 《国民戦線の破壊》は国旗の流用と破壊を通した人種差別的イデオロギーへの抵抗である。国旗の流用と破壊を通して国家と全体主義の結託を示唆し、それを分離しようと試みたわけだ。チェンバースが同作を制作した1980年前後、マーガレット・サッチャーが首相に就任した。サッチャーはメディアを通じて「有色人種移民がイギリスに大量流入することの恐怖」を喧伝し、支持率を大きく上昇させた。この政治的キャンペーンは国内の排外主義的感情を喚起し、極右政党である国民戦線の急速な台頭をもたらした。

 《国民戦線の破壊》は、こうしたイギリスの社会状況のもとで理解されなくてはならない作品だ。チェンバースは自著で、黒人の闘争と連帯する作品をつくることで、国内の人種差別に抵抗することは自らの義務であったと述べている(Eddie Chambers, Run Through the Jungle: Selected Writings by Eddie Chambers, Institute of International Visual Arts, 1999)。

アイザック・ジュリアン《テリトリーズ》(1984)、「イギリスの美術」展(ヴェストフォッセン美術館、ノルウェー、2010)の展示風景 Photo by Lars Andreas

 また、ほぼ同時期に制作されたアイザック・ジュリアンの《テリトリーズ》(1984)も、当時のイギリス社会を観察し、そこで暮らす黒人の体験にフォーカスした重要な映像作品だ。《テリトリーズ》は人種、階級、セクシュアリティといった概念が複雑に絡み合って主題をなす。ここでは詳細に検討しないが、同作の後半、ユニオンジャックが燃やされている場面がある。

 この場面は、昭和天皇の肖像を燃やす場面が挿入されていたために日本で強い非難の対象となった大浦信行の《遠近を抱えて》(1982–85)を彷彿とさせる。《テリトリーズ》の意図がイギリス社会における同一化する植民地主義的な声をふたたび断片化することにあったことを鑑みると、ユニオンジャックを損壊することは象徴的な白人中心主義批判であり、たんに国に愛着をもつ人を不快にさせるためになされているのではないことは明らかだ。

4.

 国旗損壊罪法は「国旗を大切に思う国民感情を保護する」目的をもつという。「国旗を大切に思う国民感情」とは、要は「愛国心」と呼ばれるものだ。この点に関して、しばしば「愛国心は強制されるべきではない」という意見が提出される。その意見には賛成だが、加えて、「愛国心を表現する仕方はひとつではない」と言いたい。

 将基面貴巳が説明するように、本来、「愛国」は共通善への奉仕に基づく「パトリオティズム」の訳語であった(将基面貴巳『日本国民のための愛国の教科書』百万年書房、2019年)。だが、日本では愛国が、自国の独自性にこだわり、それに対する忠誠心が形成する「ナショナリズム」の意で理解される。いずれにせよ、自らが生まれ育った場所に愛着を抱く気持ちは即座に否定されるべきものでないと私は考える。近年、ナショナルな文脈を重視しつつ、国民が政治的自己決定権をもつ「リベラル・ナショナリズム」の議論も盛んだ。

 しかし、ジョン・アトキンソン・ホブスンが20世紀初頭時点で指摘していた通り、ナショナリズムは容易に他の民族集団を攻撃する植民地主義に転化する(ホブスン『帝国主義論』矢内原忠雄訳、岩波文庫、1951年)。事実、2000年代以降、極端なナショナリズムの高まりが世界中で見られる。日本でも、インターネットを空間ふくめ、在日朝鮮人などのエスニック・マイノリティに対する排外主義が顕在化した。

 自らの生まれ育った国が誤った方向に進んでいると考えたとき、きちんと批判の声をあげることができる自由は墨守するに値するものだ。それも愛国心のあり方だ。本心を言えば、それこそが「本当の」──あまり使いたくない表現だが──愛国心だと思う。そして、そうした批判の目的は「国旗を大切に思う国民感情」自体を毀損することではない。

 歴史家のリン・ハントは、「歴史を学ぶこと」が過去の人々の考えや行動を理解し、現代社会の課題に対して批判的に対処するためのヒントを与えると主張する(リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』長谷川貴彦訳、岩波書店、2019年)。国内外の事例を問わず、自国の進路に異を唱える者を「非国民」と決めつけ、排除したとき、その国が後戻りできない過ちを犯してしまう傾向があるのは火を見るより明らかだ。

 見てきたように、イギリスのブラック・アーティストたちは作品のなかで国旗の損壊を通じて自国の民族差別や排外主義を象徴的に批判した。国を愛していなかったから、そうしたのではないだろう。自分が生きる国がより良くなるために、そうしたはずである。表現行為には、その可能性がある。民族差別や排外主義がなくなれば、もっと愛することのできる国になる。それゆえに表現行為のなかで国旗を損壊した。それは(しばしば罵倒されるように)「ゆがんだ」動機だろうか。そうした罵倒のなかに逆照射されているものこそ、ゆがんだ愛国心であるように思われる。

 国旗損壊罪法はアーティストが表現行為を通じて国家を批判する自由を侵害すると同時に、国家に対する愛着の示し方を一義的に規定するものだ。この文脈で「国を愛するがゆえに批判する」というのを「転倒したロジック」と決めつけるのは単純にすぎると思う。

 ただし、「現代アート」と称した作品のなかに、ただただ他人に不快感を与える目的で国旗を損壊するものが出てこないとは言い切れない。国旗損壊罪法施行に乗じて、批評的意図を欠いた国旗損壊のパフォーマンスを行うアーティストも出てくるかもしれない。とはいえ、そのような事態を避けるためといって、国に規制したり、ましてや──他人に直接的な害を及ぼすのでなければ──処罰したりできる権力を与えるべきではない。

 そのような作品は批評を通じて批判すべきだ。日本の現代アート界で批評が適切に機能しているとは言いがたく、それは言説生産にたずさわる私自身の責任でもある。政治的メッセージを含む作品を──しばしば「アクティビズム」とラベルを貼ることで──価値が低いと決めつけ、反対に、難解さを無批判に称揚する風潮がないか。

 国旗損壊罪法成立に際して、アート界──繰り返すが、そのようなものがあるとするならば──が連帯して反対することは大切だと私は思う。だが、自らの領域にまつわる反省的思考もまた同時になされる必要があるはずだ。