「最前線」の島をつなげるアートの力とは? 第3回馬祖ビエンナーレ(馬祖国際芸術島)
中国にほど近い台湾の離島「馬祖」にて、今年で3回目となる「馬祖ビエンナーレ」が開催されている。台湾、日本、韓国、香港、マレーシア、オーストラリア、アメリカ、スペイン、カナダの9つの国・地域から55組のアーティストが参加した今年は、南竿(ナンガン)、北竿(ベイガン)、西莒(シージュ)、東莒(ドンジュ)、東引(ドンイン)の5つの島々に75点が展示され、10以上のパフォーマンスが行われる。「最前線」の島で展開される芸術祭の意義を、台湾在住の文筆家・栖来ひかりがレポートする。

テレサ・テンの「月が私の心を代弁してる」は日本でなぜ知られていないのか?
台北の松山空港から1時間。馬祖諸島のひとつである南竿島に降り立つのは3度目だ。海の向こうにうっすらと、中国福建省福州市の山影がみえる。「中国の国際Wi-Fiネットワークにローミングしますか?」。馬祖の島々を巡っていると、携帯電話にこんなショートメールがしょっちゅう届く。ここは紛れもなく「国境」であり、かつて「最前線」だった場所なのだ。
いまから80年前、第二次世界大戦後にふたたび火の点いた中国の内戦で、1949年に中国共産党は「中華人民共和国」を北京に打ち立て、戦いに敗れた中国国民党は臨時政府を南京から台湾へ移した。そこで、対中国共産党の最前線となった金門と馬祖は、冷戦期の「最前線」から台湾の民主化や国際情勢の変化を経ていまや「国境」へと変わった。台湾海峡の緊張が緩和し、馬祖の軍事管制が解かれたのは1992年のことである。1994年からは観光客も訪れるようになったが、その後も100か所以上の軍事遺構が残り、島民さえ立ち入ることはできなかった。いや、そもそも、長いあいだ「軍事の島」であった馬祖の人々は、自分の暮らす場所でありながら行動範囲を限定され、夜の外出を制限され、灯火管制を受けるなど非日常なる日常を強いられ、島外への移動にさえ手続きが必要だった。そうした環境の後遺症として、土地の歴史や自然・文化について知り、ローカルアイデンティティを育む主体的な行動や意志も長期的に奪われた。また、同じく「国境の島」でありながらも対岸の中国まで2、3キロの距離にある金門島に比べて、中国から約10キロほどの距離にあるこの島々は経済発展の面でも立ち遅れた。いっぽうで、1990年代より一部の地域では、島外から来た専門家と島の異なる世代の住民とが協働し、集落の景観や文化資産の保存といった文化運動を進めてもいる。

馬祖ビエンナーレとは?
そんな馬祖で2021年(コロナで延期され実質的に第1回は2022年)に始まったのが「馬祖ビエンナーレ」だ。2030年までに計5回の開催を計画し、今年で第3回を迎える本芸術祭の特色は台湾初の10年先を見据えた「芸術行動」である。これはアートインスタレーションを一時的に展示するだけでなく、芸術・教育・建築という3つの側面をもち、離島という地域における「文化ガバナンス」の新しいモデルを切り開こうという意欲にあふれたものだ。
主催は、馬祖諸島を所管する連江県と文化総会である。文化総会は1967年に中華文化の振興を目的として設立された非政府組織だが、現在は「台湾文化の普及」を掲げ、歴代総統が会長を務める国家的な文化機関である。狙いは、芸術・ランドスケープ・建築の介入により、歴史・食・環境・生態・信仰・記憶を土台とする「馬祖学」を再構築し、その知を生かして暮らしと産業や経済の質を高めることだろう。瀬戸内国際芸術祭など日本の事例を参照しつつ、中国に至近という地理的特徴を踏まえ、文化を媒介に台湾本島との結束を強める地政学的意図もうかがえる。つまり、芸術と政治、芸術と地理、芸術と歴史の関係性を改めて考えざるを得ない機会でもあるのだ。

今回、2年ぶりに訪れて感じたのは、馬祖の島々がたしかに芸術祭のスタート以降、確実に変化していることだ。今年の参加アーティストである柳幸典は、日本のテレビメディアに芸術祭の意義を尋ねられ、「アーティストって、地元にいる人は気づかないものだったり、価値を見出していないものに(価値を)見いだす特殊なことをする人たちだから、そういう意味で(アートは)役に立つ」(「魔法にかかった島々」KBS瀬戸内国際放送)といみじくも答えている。馬祖においても、体育館やホールといった新しい公共建築はランドスケープと調和したものが多く、島の開発における「文化ガバナンス」の効用を感じた。とくに、前回はまだ工事中であった南竿の戦地遺構である26・53・77拠点(もともと100以上ある軍事拠点には、ひとつずつ番号が付いている)の3ヶ所が飲食空間・ピアノバー・美術館として生まれ変わり、今後の展開に期待がふくらむ。

テーマは「拍楸(パイユー/pha-jiu)」
第3回のテーマは「拍楸(パイユー/pha-jiu)ーあなたの海、わたしの陸」。拍楸は馬祖に伝わる漁法で、毎年8~9月に男たちが海底に竹杭を打ち、漁網を固定して秋冬の漁に備える。ビエンナーレはこれを「同じ島で生きる共同体験」と位置づけ、島・集落・産業・世代を越えて力をつなぐアートのイメージを示している。
そうした「拍楸」の喚起するダイナミズムを視覚化したのが、台湾原住民族アミ族をルーツに持つナカウ・プトゥン(Nakaw Putun)のキュレーションだ。ナカウはこれまで、海を媒介に生態と深くつながってきた台湾原住民をはじめ、アジア太平洋の先住民アーティストたちと協働し、「陸」というマジョリティ中心の思考を反転してきた。そんなナカウがこのたび着目したのは、ひとつの網目が家族ひとりを養い、ひとつの大きな網が島を豊かにしてきた「拍楸」そのものである。


竹編みを用いた作品で知られる台湾の建築家のガン・ミンユェン(甘銘源)は、南竿・鉄板の浜辺に大型インスタレーション《Glow of the Basket, Shadows of Bamboo(竹かごの光・竹の影)》を設置した。また、マレーシアのチー・ワイルン(朱威龍/Chee Wai Loong)は、漁港の防波堤の内側に備え付けられた風で動くインスタレーション《漁夢》で、細やかな動きと反射した光によって漁村の記憶を照らす。

カン・ヤーチュ(康雅筑)の《Unraveling and Weaving the Way Back(ほどいた糸を織り、帰り道を編む)》は、地域住民に魚の網を編み込むプロセスに参加してもらうことで、漁村で見過ごされがちだが欠かすことのできない女性の役割に焦点を当て、手仕事の知恵と集落同士のネットワークを提示した。以上は、ナカウのキュレーションによるアーティストだが、ほかのキュレーターによる展示にも「拍楸」というテーマに呼応して「魚網」から連想した作品は少なくない。

第1回より参加しているリョウ・ツーホン(劉致宏)は、漁に携わってきた地元の人々への聞き取りを重ね、潮と波・水中に差し込む光・音・匂い・味・手仕事を組み合わせた作品づくりを行う。前回と同じく、伝統的な閩東式の漁村建築1階の蝦醤用のプール、そして天井に明かり取りのある2階を使ったインスタレーション《漁汐 Tide & Time》《Pickled & Steeped》は、水中に浮かんで水面からの太陽を受ける草縄編みの網を空中に設置した。リョウは「場所」が語りかける物語にしっかりと耳を澄ませるアーティストであり、そのぎっちりと編まれた網の重厚な姿に、遥か昔から寄せては返してきた波のリズムを想像させる。

サステナブルな環境と生態をテーマにしてきた米谷健+ジュリアの《生命之網 Web of Life》は、極細のナイロン線で編まれた軽やかで巨大な網がブラックライトによって浮かび上がるイマーシブな作品である。細く絡まり、ともすれば解けそうな網の儚い美しさは、馬祖の自然現象「藍眼淚(ランイェンレイ)」を思わせ、海と人類との共生関係が投影される。「藍眼淚」は夜光蟲の生物発光と外部刺激が反応を起こして青い光を放つ現象で、その生態系は非常にデリケートである。
会場となった戦地遺構
飲食・生態・信仰など風光明媚な馬祖ビエンナーレに戦地遺構が強烈な陰影をもたらす。台湾では男性の多くに兵役が課せられ、かつて馬祖と金門へ配属が決まることは「金馬奨を獲った」(金馬奨は、華語圏のアカデミー賞ともいわれる台湾の映画賞)と揶揄される試練として知られた。

軍事拠点の坑道に陶製の数千の白菊を並べたのはリン・チュアンチュ(林銓居/Lin Chuan-Chu)である。1949年以来、この地で犠牲となってきた数知れぬ青春と生命を象徴する《菊花五千朵 5000 Chrysanthemums》の置かれた床の真上には、消音のために棘のように突き出た凸凹の天井が向き合い、観る人の心を圧迫する。

写真家チェン・ボーイー(陳伯義)の《拠点の凝視》は、封鎖されていた15拠点の銃眼(射口窓)に焦点を当てた。額縁のように切り取られた海と島の景色は、かつての兵士の視線と心情を想像させ、戦地としての馬祖を象徴する。あわせて、チャン・ツーツォン(張致中)の《家書》は、拠点内部の高温多湿という過酷さを可視化する。天井から吊るしたキャンバスに感湿インクで印刷された兵士の手紙が湿度に反応して現れては消える。

「戦争」の落とし物
とくに心に残った作品のひとつが、台湾社会の周縁に生きる人々を映像インスタレーションで表現してきたチェン・ジエレン(陳界仁)よる西莒の元映画館を利用した《帝国の境界II―西方公司》であろう。冷戦期、とりわけ朝鮮戦争のあいだ台湾本土や離島で暗躍したのが「西方公司」である。表向きは民間会社だったが、実質的には米国CIAによる組織で、西莒にもオフィスが置かれた。アーティストの父親は実際に「西方公司」の下にあった軍隊に参加し訓練を受けており、父の遺品のなかにあった書類や死者のリスト、写真、さらにそこから想像したフィクション映像を交えたインスタレーションは、「帝国」に挟まれ歴史の地割れに落ちていった人々を凝視する「父を探す旅」である。新作ではないが、実際に「西方公司」のあった島の元映画館という「場所」の履歴が作品の内包する時間レイヤーと強烈に響き合う。


「戦争」の落とし物をすくい上げた例はほかにもある。シン・チー(辛綺)とフェイク・ファイアー・アトリエ(艸非火)のチェン・ジュンツォン(陳雋中)、デザイナーのシュー・ジンティン(徐景亭)は、地元の飲食店や宿と協働し、南竿・北竿・東引で聞き取りを行い、冷戦期の灯火管制下の出来事や日常を再現した。作品はブラックライトで色鮮やかに光るが、梅石営区の映画館に宣伝砲弾が落ち、崩れたコンクリートで民間人と軍人計26名が死傷した事件などもモチーフとなった。金門と違い馬祖では実戦はなかったと思っていたが、この作品の案内を通して自分自身の思い込みに気づき、まだ知らないことはたくさんあると痛感した。


また、梅石営区には映画館のほか軍官特約茶室(慰安婦施設)もあった。ここでポン・ヤーリン(彭雅倫)《白馬非馬》は、公孫龍の命題をジェンダー論へ援用し、「女性」を単一属性で捉える視線に抗った。馬祖では「媽祖」に加え白馬夫人・臨水夫人など女性神が祀られ、他地域で男性が担うことの多いタンキー(乩将)を女性のみが務めるなど、女性を核とする信仰が根づく。この固有の文脈を起点に、作品は多層の「女性像」を提示する。

「地球と遊ぶ」をテーマに日常のなかにある自然現象を視覚化する体験型作品制作やワークショップを行う木村崇人の《2つの島とともに雲になる日》では、東莒と瀬戸内海の男木島の住民らとともに感光液を塗った布に子供たちの姿を感光させ、大きな凧として空に揚げた。軍事基地下で東莒の子供たちは長く自由な動きを制限されていたことを参照している。第2回でも、同じく2つの島の子供らとともに作品をつくった高橋匡太《雲の故郷へ》において、雲は戦時下においても国境を越える自由さの象徴であったことに、現在のガザの状況を思わずにはいられないだろう。
台湾の痛みに向き合う日本人作家の表現の不在
南竿の解体予定の旧体育館を用いたのが、柳幸典《ゴジラ・プロジェクトー健康な島・幸せな馬祖》である。中央の「ゴジラ」の虹彩には、広島への原爆投下や太平洋ビキニ環礁での水爆実験(第五福竜丸事件)の映像が映る。解体予定の木床を破砕して盛り上げ、核警告色の廃ドラムや台湾電力提供の不要機材、電柱・配管、マットが積み上げられた災害現場の様相は、観客が言葉を失うほどの迫力であった。

いっぽう、開幕シンポジウムでアーティスト自身が語った作品の背景には、失望を禁じ得なかった。会場には、かつて日本の植民地支配と加害の記憶を負う東南アジアや韓国の関係者もいた。柳は歴史的メッセージ性の強い作家として知られるものの、台湾や東アジア・東南アジアの戦争記憶ーーすなわち日本の歴史でもあるーーへの接続は十分とは言い難く、言及されない(=零れ落ちてしまった)ことの残酷さを感じた。
しかし、問題は柳個人に限らず、先の戦争や戦前史を扱う日本の表現一般に通底する課題である。2025年の「戦後80年」を冠した催しや報道、舞台・映像作品でも、日本の「被害」が前面化しすぎではないかというのが筆者の率直な感想である。また、せっかく台湾に来て発表の機会を得ても、かつて植民地であった台湾社会の痛みに真正面から向き合う日本側の表現を見ることは稀である。「戦後80年」に対して、台湾にとっては日本の領土化への郷土防衛戦争「乙未戦争(いっぴせんそう)」(1895年)を起点とする「戦後130年」という長い時間軸もあるのだが、その認識は日本側に十分共有されていない。
台湾の美術は「個人的なことは政治的なこと」を基調に、「脱植民地」や「移行期正義」(国家や組織的に行われた大規模な人権侵害や暴力行為に対して社会が向き合い、再発防止を目的とした様々な取り組みを行うプロセス)への実践が根づく。その複層的文脈のなかで、日本人アーティストの作品は工芸的に精緻であっても、どこか浮世離れして見えることがある。しかし、これは日本側だけの責ではなく、台湾のキュレーター/主催者が日本側のリサーチに必要な情報を十分提供できていない面もあると思う。加えて、与党・民進党政権下に発達してきた「地域芸術祭」では、対日関係に配慮して敏感な歴史問題を回避しがちな傾向も否めないだろう。だからこそ、今後、日本のアーティストがもし台湾で制作をする機会を得たならば、台湾の歴史や痛みについて知り、国際展の枠組みでどのようにコミットできるのかを考えてほしいとも思う。そうした積極的な取り組みこそが、「日台友好」「日台の絆」といったスローガンで「漂白」された関係を超え、観客も含めて作品に関わるすべての人々が「過去と未来に触れる」というアートの力を感じることにつながるだろうし、そうした多層的な視座をもつ作品を見たいと願う。
“発酵”していく時間
もっとも心に残ったのは、過去にマッコリ醸造を作品化しており、兵役の経験もある韓国のヂョン・ヨンドゥ(Jung Yeondoo)による《第88號記憶的顫音 Tremolo No. 88》である。これは、馬祖を代表する名産品のひとつでもある「コーリャン酒」の甕を貯蔵する「八八坑道」に展示された。第3回にして初めてこの場所で展示が行われることになったのは、特別なこの場所に相応しいアーティストを探していたからだと総括ディレクターのウー・ハンツォン(呉漢中)は語る。ひんやりした坑道の最奥に三面スクリーンが据えられ、兵役中の男性、カラオケを歌う女性、夜空を横切る砲弾のリアル・フッテージが交錯する。手前の甕には音階が割り当てられ、発酵の泡のはじける音が拡張され、テレサ・テンによる「月亮代表我的心」に合わせて甕の光が点滅する。この曲が広まった冷戦下から華語圏を代表するスタンダードナンバーとなった現代へ、アーティスト自身の記憶とともにひとつの歌も“発酵”していく時間が可視化される。
あなたはたずねる、どれほど深く愛しているの、どれほど愛しているのかと。考えてごらん、見上げてごらん。
月がわたしの心を代弁してる。
これは、「月亮代表我的心」の歌詞の一部(日本語翻訳)である。テレサ・テンは台湾のみならず、日本においても大スターであることは間違いないと思う。しかし、テレサの代表曲ともいえるこの曲を日本で知っている人はごくわずかだろう。なぜか? おそらく、日本語で歌われなかったからである。日本語に翻訳され伝えられてこなかった台湾の記憶を、「親日台湾」や「日台友好」というスローガンを享受するわたしたちは、どれだけ知っているだろう? 地球から月の裏側は見えないし、太陽に照らされるのはつねに一部である。しかしその裏側や暗い部分を想像することも文化芸術の役目であり、その想像が「愛」によることは日本の人々にとっても身近な美的感覚であるだろう。


さて、ヂョン・ヨンドゥはこの制作のため、韓国から直接、台湾に来て馬祖に渡るのではなく、あえて中国に入り福建省を経て馬祖に渡った。個人の経験、移動のプロセス、島の歴史、酒に宿る時間が重なり合い、本展のテーマ「拍楸ーあなたの海、わたしの陸」を体現するかのようだ。耳元で秘密をこっそり打ち明けるように慎ましやかなこの作品を観ながら、19年前に日本から台湾へ渡ったわたし自身の道のりも呼び覚まされ、「いまここ」でヂョン・ヨンドゥの音と映像に自分の記憶が交じり合う。この原稿を書きながらその時を思い出せば、湿度に満たされ、甘酸っぱく苦く、ぷつぷつと発酵する酒を口にするような坑道での感覚がよみがえる。稀有な体験であった。