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2026.8.26

身体感覚を研ぎ澄ますという静かな抵抗。菊池裕子評「身体と物質のエスノグラフィー 加速社会における遅さと深さ」展

第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の期間中には、街中の歴史的建築や文化施設を舞台に関連展覧会やイベントが数多く開催されており、見どころのひとつとなっている。なかでも日本の現代工芸をテーマにした「GO FOR KOGEI」が10名の作家を招聘したグループ展を開催しており、注目を集めていた。その展示の模様について、元V&A学術プログラム部長で研究者の菊池裕子が読み解く。

文=菊池裕子

Fig.1 会場外観 撮影:池田紀幸
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ヴェネチアのピンク色のバナー

 会場はヴェネチアのもっともアイコニックなリアルト橋からほど近い静かな裏路地にある。15世紀のヴェネチア・ゴシック様式で有力貴族ピザーニ家の邸宅のひとつである(Fig. 1)。1、2階の約500平米の空間をクラパット・ヤントラサストがデザインした。入り口は裏道沿いにあり建物の裏側は支流の運河に接している。暗い空間の奥に運河からの強烈な光が切り取られた窓のように見え、朽ちかけた木造の内装には、長年積み重なった人々の生活の痕跡が深く染み込んでいる。これまで「GO FOR KOGEI」シリーズが北陸の寺社や町屋で繰り広げてきた展示空間を想起させ、土地も歴史も異なるはずなのに、不思議なほど共通する「歴史の堆積」を感じさせ心地がいい。本展の核には、アーティスティック・ディレクターの秋元雄史が長年温めてきた、「身体と物質の関係をいかに制作のなかで統制し、あるいは委ねるか」(*1)という問いがある。そのうえで、「GO FOR KOGEI」を通して関係を築いてきた作家たちと、新たに加わった作家たち計10名による約100点の展示となっている。

 会場へ向かう小さな橋からは、サイケデリックなピンク色のバナーが見える。このピンクはヴェネチア特有の淡いコーラルピンクでもなく、プレビュー期間中のヴェネチア・ビエンナーレ会場で抗議表明をしたプッシーライオットや、あるいはビエンナーレ企画展の参加作家である嶋田美子の「おまえが決めるな!」のバナーが象徴するフェミニズム的実践とも多少呼応しながらも、どちらかというと現代のアジアの消費社会を象徴する超人工的な日常のピンクだろうか。ともあれ、この展覧会は現代社会の批評を切り口として、「工芸」を近代的な「美術/工芸」というヒエラルキーから解放しようとする試みであり、その背景には1990年代以降の工芸論の蓄積がある。

Fig.2 コムロタカヒロの展示風景 撮影:池田紀幸

 日本では1990年代初めに金子賢治が「工芸的造形」という概念を提示し、素材や装飾、触覚性の問題を美術批評のなかへ導入した。いっぽう英米ではグレン・アダムソンらが、工芸が「美術」に従属させられてきた構造そのものを問い直した。それは工芸が周縁化されてきた背景に、近代国家、植民地主義、知識の再生産装置としての美術制度と、それを操るエージェンシー(行為主体性)が存在するという視点である。秋元自身の脈絡のなかでは、遡って2012年の「工芸未来派」展(金沢21世紀美術館)で同様の問題が金沢から発信され、巡回したニュヨークではグローバルな議論と交差しながら問い続けている課題である。「工芸独自の技法を用い、工芸独自の歴史観を参照しながら、今日の表現になろうとする主体性」をどのように見出せるだろうかという問いを、表面や装飾、土着的なもの、技術、触覚などを工芸的なものの特徴として探り、再評価の仕方へとつなげてきた(*2)。近年のヴェネチア・ビエンナーレでも、女性・クィア・移民・先住民など、歴史的に周縁化されてきた主体を再評価する流れのなかで、工芸的表現が急速に存在感を増している。本展もまた、そのグローバルな議論と呼応しながら、日本から工芸を再定義しようとするものだ。

作家と作品

 選ばれた作家は多様である。アダムソンが工芸をたとえて「星座(constellation of stars)」(*3)と言うように、無関係に見えながら関係がありそうに見えてくるもの、またグレイソン・ペリーの言うような、果てしない大海とつながりながらも囲われた「潟(lagoon)」(*4)のなかで工芸的な特徴を探すという隠喩がぴったりくる組み合わせである。

 入り口でまず観客を迎えるのは、コムロタカヒロによる一対のドラゴン像である(Fig. 2)。これはポスター、そしてピンクのトートバッグのデザインにもなっている。寺社の阿吽像や狛犬を思わせる配置だが、その姿はアニメやソフビ玩具のキャラクターである。ヴェネチアのサンマルコ広場にある聖ゲルギオスと悪の象徴竜退治の神話の像は、キリスト教世界においてもっとも広く人口に膾炙する正邪の表象だが、『ドラゴンアトラス』(*5)が示すようにドラゴン神話は世界中にあり、それは現代のサブカルチャーにも生きている。コムロにとってドラゴンは、日本のサブカルチャーの魅力的存在であると同時に、新興宗教の家庭に育ち、そこから離脱した自身のトラウマとも重なる「神聖」な存在であるという。信仰を失った後に残る空白を埋めるものとして、ドラゴンは極めて個人的な意味を帯びている。仏像と同様の木彫であり、胡粉を思わせる繊細な彩色がされた表面の表情が独特である。背後には対のゾーイとキーラのスフィンクス像があり、中二階には小型木彫のキャラクター作品が並び、宗教性、玩具文化、工芸技術が独特に混ざり合う世界が形成されている。

Fig.3 桑田卓郎の展示風景 撮影:池田紀幸

 会場中央には、桑田卓郎のインスタレーションが広がる(Fig. 3)。色鮮やかな失敗作のマグカップが無造作に積み重ねられ、その上に巨大な作品が立ち上がっている。通常であれば廃棄されるものをあえて作品の一部に取り込み、大量廃棄される陶器のゴミ問題に触れている。巨大な作品には白の梅花皮(かいらぎ)がアイシングされたチョコレートマフィンのような塊、表面に桑田の指でマーキングを残したボディに、黄色と青に金の突起がある点滴の塊が2つ、そして高さ約1メートルの光沢のある原色緑のウレタン塗装釉が垂れている巨大なバケツ状カップがある。これは陶器に見えてじつはブロンズ製であり、工芸と彫刻、美術と工芸の境界を揺さぶる作品となっている。秋元が「工芸未来派」展以来、桑田に強い関心を寄せてきた理由は、桑田が「茶碗」という日本独自の美意識を、現代的身体感覚によって日本から再評価しようとしているからだろう(*6)。またデイヴィッド・ステントが言うように、桑田の「破壊的な造形性(Destructive Plasticity)」は新しい価値組み替えの可能性をグローバルにも刺激している(*7)。

Fig.4 綿結《プラトニックダンサー》(2026) 撮影:池田紀幸

 梁から重く垂れ下がる赤みがかった土色のファイバーアートは綿結の作品である(Fig. 4)。大学院を卒業したばかりの気鋭である。この修了制作の作品は、綿で糸を捻り、金沢の土で染め、織る、組む、絡める、結ぶなどの各種技術を駆使している。素材と身体が不可分となっていて、機織りで織ったもの、二重織で袋状になったもの、そして巣──3点がつなぎ合わせられてひとつの作品になっている。この巣は、木箱を支えに蜘蛛にならって「起点から次の支点に糸を張り、規則性を持って糸を固定していく(中略)糸が塊になっていき、自分の周りを囲うほどになったら、蚕のように自分が中でくるくる回りながら糸を追加していく方法」でつくったという(*8)。バスケタリーの構造力学を用いて素材のもつ特性と技術の関連性の文法を編み出した関島寿子のような、構造を模索する実験である(*9)。

 綿結の作品は、2022年のヴェネチア・ビエンナーレで話題になり、バービカン・アートギャラリー(ロンドン)で個展「Unravel」 展(2024)、そしてロイヤル・アカデミー(ロンドン)で回顧展(2025)が開かれた、ムリナリーニ・ムカジー(Mrinalini Mukherjee)を思い出さずにはいられない。ムカジーの作品は、ロープや麻糸でつくられたおどろおどろしい神々であるが、女性性、植民地主義、階級社会の問題を提示している。綿結自身は素材を身体感覚から選んでいるが、綿という素材は、奴隷労働や搾取の国際的文脈から切り離せない。「Unravel 」展で明確化されたように、布やファイバーには素材や身体(とくに女性の)と直結した強い表現力が内在し、ローカルな個人の身体性から出発しながら、グローバルな政治性とも接続するストーリーができてしまうのである。

 ファイバーアートが現在、世界的に再評価されている背景には、こうしたジェンダーや植民地主義の問題が存在している。しかしこうして境界に穴を開け、中心性を排除する力を世界的に見せつけたいっぽう、工芸の問題はそう簡単に失せない。ロイヤル・アカデミーという美術のハイアートの殿堂で行われた際、ムカジーの作品は「編まれた彫刻(woven sculpture)」と評された(*10)。そしてもっとも皮肉だと思われたのは、作家のインド・ムンバイでの複雑で多様なアートコンテクストを咀嚼せず、インターナショナルなモダニスト彫刻として紹介したということだ(*11)。これは「インド」「女性」というだけで民族学的フォークアートとして扱われてしまい、現代アートとして評価されにくくなる境界があるためだ。ここで、綿結というファイバーアーティストを日本の外で紹介するときに抱える深刻な問題が見えてくる。現代のローカルな脈略をもつ非西欧白人であり、女性であるというインターセクショナルな要素をもち、さらに工芸的なものでもあるからだ。強靭でびくともしない階級人種社会がある英国などで現代的な共通言語を見つけるのは、日本からは想像もつかないほど至難のわざである。そのような場所で展示するときにどのような語り口が必要なのか、どんなタイトルで人は何を想起するのかなど、受け手がどのような社会的コンテキストのなかに生き、どのような二項対立思想を持っているかによって、対話の可能性を広げたり、失ったりすることになるだろう。構造、組織、染めに使う金沢の土に原初的な興味をもつ綿結が今後、その個人の身体性にどのようなグローバルな共通項を見つけていくのか期待が大きく膨らむ。

Fig.5 牟田陽日の展示風景 撮影:池田紀幸

 牟田陽日の3点の巨大な壺の展示は、運河へ開かれた空間に配置されている(Fig. 5)。老年と若年の心臓を描いた《脈打つ洞》という題の壺が中央に、山の動物や植物たちが絡みつく山男が左、口に魚をくわえ海の幸を背負っている磯女を描いた壺が右に並び、その周囲には北陸の山や海の写真をプリントしたクッションが置かれている。牟田の作品が置かれた展示室の突き当たりは外の運河とつながる船寄せの開口となっている。心臓は「生命のポンプとして会場と運河、ベニスの都市、作家と観客」をつなげ、「性別、人種、地域、今昔」をつなげようという意図がある(*12)。柳田國男の『遠野物語』や世界の神話が描く人間界と自然界の交錯する神秘、北陸土着の文化風土などがトランスナショナルな想像へつながる。磯女は美しく怖い妖怪で、加賀国に伝承する浜姫、西欧の人魚など男の船乗りが投射するジェンダー化された恐怖、そして「玉取り姫」という子と夫のために自己犠牲になる海女のイメージとも重ねられている(Fig. 6)。

Fig.6 牟田陽日《磯女》(部分、2025)陶器 撮影:池田紀幸

 ここでは日本文化にかぎらず世界中で周縁化されてきた女性が問題化されている。古いものから新しい神話を批評的につくり、中心から外されてきた文化や工芸の再評価につなげる牟田の戦略は、カミーラ・マーティンの提案する「呪術戦略のフェミニズム(Conjure Feminism)」や、シアスター・ゲイツが実験する「アフロ・クラフト・フューチャリズム」がジェンダーや人種の問題に創造的なアプローチで挑戦することに似ている。ここで重要なのは、牟田の九谷伝来の釉薬や技術にひねりを入れた使い方である。例えば、心臓の薄く透明感のあるピンクは、伝統的な九谷の赤絵に使われてきた有鉛の酸化鉄の不透明なものではなく、金微粒子と和絵具の材料ガラス粉砕物のフリット(しかし現代的に無鉛)と洋絵具の中間色の赤が混ぜられた新しいハイブリッドである。また、凸盛(でこもり)という明治時代に輸出されていた九谷焼のインパクトある装飾技法を使い、青い背景に金で心臓を囲む神経・血管・リンパ・細胞等と、植物・根・太陽・光などの自然のモチーフを組み合わせたヴェネチア風の紋章が描かれている。明治以来の九谷焼の技術革新の流れも引き継ぎ、牟田の工夫により透明感・光沢・層の厚みを醸し出す物質観と表面の装飾から、現代のナラティブが一体となってつくられている。

Fig.7 川井雄仁の展示風景 撮影:池田紀幸

 さらに進んで川井雄仁の展示室に入ると、低い天井に雑誌の切り抜きやアイドルの写真に囲まれるように陶器の作品が並ぶ濃密な空間がある(Fig. 7)。カラフルなトッピングのあるアイスクリーム状の陶造形から精液のように噴水が噴き出し、三島由紀夫、『ヴェニスに死す』のタビオ、特攻隊の青年たちの有終の美への憧憬、若さへの執着、ナルシシズム、死への欲望が入り混じっている。個人的なセクシュアリティの自分史を振り返りながら、陶芸を通して身体感覚と欲望の記憶を語る作品であり、どこか甘美で危うい。三島由紀夫の永遠の肉体への執着とも重なりながら、現代人が芸術や宗教を失った後に抱える空虚さも浮かび上がらせている。四方の壁に繰り返し埋め込まれた三島のポートレートは、そんな永遠の若い生と身体美への溺愛と執着が、甘いアイスクリームの舌触りと重なり、脳裏に濃厚にしみつく。現代社会には「性的放縦と殺人の観念を、水にうすめて、ヴィタミン剤のやうに供給し(中略)いたるところにエロチシズムが漂ひ、従って死の匂非が浸透している」毎日があると書いた三島のエロティシズムと、川井流の身体感覚を通した陶芸の新しいナラティブがこの部屋には充満している(*13)。

Fig.8 三嶋りつ惠の展示風景 撮影:池田紀幸

 2階へ上がると、三嶋りつ惠の透明ガラス作品群が整然と並ぶ(Fig. 8)。人工的な白光で下から照らされたライトボックスのように、38点のガラス作品は色彩を排除することで、ガラスそのものの透明性とフォルムを際立たせている。三嶋の作品では、ムラーノ島の親方職人との協働制作を通じて、高熱のなかで変化し続けるガラスの身体的経験をそのまま作品化している点が重要である。2024年の東京庭園美術館での展示(青木野枝との二人展)のときと同様に、彼女が愛し自分のルーツとするヴェネチアンガラスという伝統に深く根ざしながらも、その枠組みを抽象的に拡張している。

Fig.9 沖潤子《月と蛹 01》(2017)の展示風景 撮影:池田紀幸

 2021年の「GO FOR KOGEI」の石川県那谷寺での展示と同様、7つの作品が鉄枠に貼られて衝立のように立ち、奥の窓から差し込む自然光が柔らかく生成りの綿や麻布を透かせて見せているのが、沖潤子の刺繍作品である(Fig. 9)。生成りの布に赤い糸が執拗に刺し重ねられ、血や皮膚、かさぶたを思わせる。母の遺品や古布を素材にし、長い時間をかけて刺繍を重ねる行為は、修繕やケアを担ってきた女性労働とも重なる。展示室の真ん中に位置する3点の「月と蛹」シリーズでは、自らを蛹(サナギ)に重ねながら、夜通し針を刺し続けて外皮を成形し、最後は自分の身体ごと溶けてなくなってしまい羽化するような、神秘的な長い時間について語っている(*14)。一針一針の動きと針目の堆積に記憶された時間をじっくり読み取らなければならないのである。布や刺繍は長く「女性的」「家庭的」なものとして周縁化されてきたが、近年のクラフティヴィズムやフェミニズム批評によって再評価されている。沖の作品もまた、手芸とアートの境界を横断しながら、時間と身体の記憶と感覚を強く呼び起こしている(*15)。

Fig.10 シゲ・フジシロの展示風景 撮影:池田紀幸

 シゲ・フジシロの空間では、環境破壊や消費社会の問題が非常にストレートに表現されている。対になったビーズによる巨大なバスケットボールのゴールと滝のように流れるネットの作品がまず目につく(Fig. 10)。右のゴールに留まる孔雀の長く垂れる羽と呼応してイヴニングドレスの裾のように華麗に流れるビーズの網は、孔雀色のヴェネチアのラグーンの水を思わせる。いっぽう左のゴールに垂れる網は、黒のビーズで汚染や乱獲を暗示している。人を指すこともできる安全ピンでつながれた美しいビーズの細かいガラスは輝き、天井から下がるシャンデリアや自然光とも乱反射して、繊細で危険でフラジャイルな世界ができあがっている。部屋の隅には、すべてビーズ製のブランドロゴ入りショッピングバッグやゴミの山がある。赤白の三角コーンや黄黒の立ち入り禁止ベルトが自然と人間社会の境界を示している。2羽のドイツのカラスが、最先端のファッションが詰まっているであろう洋服ダンスの上から街に溢れているゴミや私たちを凝視している。ビーズはいま、布と同時に非常に注目されている素材である。ヴェネチアで社会から周縁化された女性の労働でつくられたビーズが欧州の植民地貿易により西アフリカに広まり奴隷貿易にも使われた「アフリカンビーズ」のもたらした搾取の歴史がここでは蘇る(*16)。 そして、先住民社会の視点から論じる「ビーズ・トーク(Bead Talk)」が強調するように、ビーズは静止したものではなく、アクティヴな媒体となり長い時間の記憶や精神性を持ち運び、対話を生み出す。フジシロの作品においても世界観を語ることができるビーズという素材についての考えを深めることができる(*17)。

Fig.11 舘鼻則孝の展示風景 撮影:池田紀幸

 舘鼻則孝の展示では、天井から下がりシャンデリアも包み込む薄水色と赤の組紐の簾に囲まれた空間に、3足のヒールレスシューズと真紅の花魁の履く45センチもある高下駄が商品のように置かれている(Fig. 11)。レディー・ガガがライブで履いたことで一躍有名になったエンボスレザーの作品とは違い、龍工房とのコラボで組紐と「結び」が全面に施されている。裏表の色を巧みに使い分け、江戸的な「粋」を現代的に再解釈している。花魁が高下駄を履くときの不安定さや緊張感を現代人の身体へと接続し、伝統技術をファッションと身体表現へ結びつけている。

Fig.12 中田真裕の展示風景 撮影:池田紀幸

 カーブを描く通り道にある壁の空間には、中田真裕の壁掛けの絵画風の作品2点と壺のような作品1点がシンプルに展示されている(Fig. 12)。東南アジアから伝来し、近代の讃岐漆器で発展を遂げた蒟醤(きんま)という技法を駆使し、何十層もの漆を重ね、彫りと研ぎを繰り返しながら制作されている。《サンダークラウド》という題名の直線的な壺は、中田が好む、金沢の冬特有の「ブリ起こし」と呼ばれる恐怖の雷の表現だという。深い濃紺の上にはベージュの油滴のような模様が散っている。

 壁掛けの丸い窪みのある作品《ミラージュ》(Fig. 13)では、中田のトレードマークともいえる独特な黄土色の背景に奥行きの違いのあるたくさんの線が見えてくる。中央には水平に真紅の線が立ち上がっている。深海や空の奥行きを思わせるその表面は、たんなる装飾ではなく、時間と記憶の蓄積そのものである。漆は湿度や光によって見え方が変化し、見る側にも長い時間を要求する素材である。アジアにしかない漆という素材のグローバルな共通言語を見つけるのは難しい。「ラッカー(lacquer)」という英語は、西洋近代が「表面/深さ」を二項対立的に捉える薄っぺらい表面を想起させる。グレン・アダムソン、ヴィクトリア・ケリーらデザイン史家たちによる「Surface Tensions (表面の緊張)」は、そのような二項対立を批判し、ほかの見方に価値を見出そうとする試みである(*18)。漆は両者を同時に成立させる素材として、新しい評価の物差しが提示できる大きな可能性をもっている。

Fig.13 中田真裕《ミラージュ》(2026) 撮影:池田紀幸

 「In Minor Keys」と響き合う「工芸」

 今回のヴェネチア・ビエンナーレの全体テーマは「短調で(In Minor Keys)」である。そこには、近代が周縁化してきたものを拾い出す狙いがあるわけだが、まさに、本展が再評価しようとする素材・身体・装飾・時間の問題を含んでいる。彫る・編む・吹く・刺す・結ぶ・塗る・重ねるといった身体を通しての行為の蓄積は、効率と速度を追い求める現代社会の奔流への静かな抵抗でもある。それらを工芸の価値へと置換する作業は本当に難しいが、これまで「GO FOR KOGEI」が丹念に積み上げてきた成果が強く感じられる展示となっていた。駆け足で参観するのが通例となっているヴェネチア・ビエンナーレの祭典をゆっくり見よというのは贅沢な要求だが、本展はそこでブレーキをかけ、人間としての身体感覚を研ぎ澄まそうと呼びかけている。展覧会をゆっくり見終わったら、アペロルのグラスをラグーンと青空にかざしてちょっと一息深呼吸してほしい。

*1──「GO FOR KOGEIプレスリリース」2026.05.05、3頁。
*2──秋元雄史「『工芸未来派』の背景となる考え方―今なぜ工芸の現代美術化が必要なのか?」、『工芸未来派』、金沢21世紀美術館、2012。
*3──Glenn Adamson, Thinking Through Craft, Oxford and New York: Berg, 2007, p. 6.
*4──Grayson Perry, ‘A Refuge for Artists who Play it Safe’, The Guardian, 5 Mar 2005. (https://www.theguardian.com/artanddesign/2005/mar/05/art?utm_source=chatgpt.com).
*5──Anna Clayvourne and Pham Qung Phuc, Dragon Atlas, London: Laurence King, 2024.
*6──秋元雄史2012、13頁。
*7──David Stent, “Blue-Slipped Stone-Burst” – Seeing Destructive Plasticity in Takuro Kuwata, The Journal of Modern Craft, 14-1 (2021), pp. 43–56.
*8──綿結メール、2026年5月23日。
*9──関島寿子『バスケタリーの定式:かごのかたち自由自在』、平凡社、2024(改訂版)。
*10──https://www.royalacademy.org.uk/exhibition/mrinalini-mukherjee
*11──https://www.theguardian.com/artanddesign/2025/oct/28/a-story-of-south-asian-art-review-royal-academy-london-mrinalini-mukherjee
*12──牟田陽日メール、2026年5月21日。
*13──三島由紀夫「『エロチシズム』―ジョルジュ・バタイユ著、室淳介訳」、『決定版 三島由紀夫全集』、31巻、新潮社、2003、414-5頁。
*14──「時を超えて混ざり合う布と糸。 『第11回shiseido art egg』 沖潤子インタビュー」、ウェブ版「美術手帖」、2017年6月28日。(https://bijutsutecho.com/magazine/interview/promotion/5371)
*15──Rozsika Parker, The Subversive Stitch: Embroidery and the Making of the Feminine, London: I.B. Tauris, 2010 (1984);  Julia Bryan-Wilson, Fray: Art and Textile Politics, University of Chicago Press, 2017; Wells Fray-Smith, Lotte Johnson and Amanda Pinatih eds., Unravel, London: Barbican Art Gallery, 2024. 
*16─Lidia D. Sciama and Joanne B. Eicher eds., Beads and bead makers : gender, material culture, and meaning, Oxford [England] ; New York : Berg, 1998; ‘From culture to currency: glass beads and the transatlantic slave trade’ ( https://www.vam.ac.uk/articles/from-culture-to-currency-glass-beads-and-the-transatlantic-slave-trade?utm_source=chatgpt.com)
*17──Carmen L. Robertson, Judy Anderson, Katherine Boyer eds., Bead Talk: Indigenous Knowledge and Aesthetics from the Flatlands, Manitoba, Canada: University of Manitoba Press, 2024.
*18──Glenn Adamson and Victoria Kelly eds., Surface Tensions: surface, finish and the meaning of objects, Manchester University Press, 2013.