• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • 鑑賞者、出荷準備完了。田村正資評「ナイル・ケティング Bl…
2025.10.16

鑑賞者、出荷準備完了。田村正資評「ナイル・ケティング Blossoms-fulfilment」展

寺田倉庫がTokyo Gendaiと連携し、天王洲で開催した「TENNOZ ART WEEK 2025」。その目玉のひとつとして、寺田倉庫G3ではナイル・ケティングが日本で約10年ぶりとなる大規模な作品《Blossoms – fulfilment》を発表した。展覧会の「鑑賞(者)」に着目したパフォーマティブ・インスタレーションを、哲学者・田村正資がレビューする。

文=田村正資

《Blossoms - fulfilment》の展示風景 Photo by Asuka Yazawa
前へ
次へ

「鑑賞する」とはどういうことか?

 「趣味はなんですか?」と尋ねられて「映画鑑賞」や「美術鑑賞」と答えるとき、なにか気恥ずかしさを感じてしまう。好きなものを訊かれてたんに「映画」や「アート」と答えるときには出てこないこのむず痒さは、おそらく「鑑賞」という言葉の響きに由来している。嘘はついていないつもりなのだが、パッと出てくるこの言葉が実態に即したものなのか、自信がない。つまるところ、鑑賞という言葉は、そこで吟味される作品や対象よりもそれらの前に立つ私たちの姿勢を評価するものであるがゆえに、何か私たちを落ち着かなくさせる響きをもっているのだ。

 だからこのように問いかけてみよう。趣味という言葉にまとわりついたフォーマルな調子に引っ張られて出てくる「鑑賞」という言葉は、自分が「映画」や「アート」を好んでいること以上の何を担保しているのだろうか。映画館や展覧会に行くことと、作品を鑑賞することのあいだには、私たちのどんな実践が位置づけられるべきなのだろうか。というか、そこにはなにか埋めなければいけないギャップがあるのだろうか。

 2025年9月に東京・天王洲で開催されたナイル・ケティングの「Blossoms - fulfilment」展は、鑑賞という言葉がもたらす落ち着かなさそのものを呈示する試みのように思われた。《Blossoms – fulfilment》は、倉庫空間に配置されたオブジェクトと空間内を動き回るパフォーマーを組み合わせたパフォーマティブ・インスタレーションであり、ケティングが2024年にリスボンにあるグルベンキアン現代美術センター(Centro de Arte Moderna、通称CAM)」で発表した「Blossoms」に連なるシリーズとして新たに制作された作品である。

 《Blossoms》というタイトルの由来は、江戸時代の歌舞伎で用いられた隠語の「サクラ」だ。歌舞伎で舞台からもっとも遠い客席のことを「大向こう」というが、劇の見せ場ではこの席から屋号などの掛け声が入る慣例がある。この掛け声が的確なタイミングで入るかどうかによって公演の盛り上がりが左右されることや、そもそも掛け声が演出の一部となっている劇があることから、芝居小屋が客を大向こうにタダで座らせる代わりに掛け声を依頼するようになり、そのときに用いられた隠語が「サクラ」であるという説がある。いまでは、主催者からなんらかのインセンティブをもらってイベント会場やお店に出没し、場が賑わっているように見せかける偽物の客のことを指すスラングとなった。

 鑑賞行為というのは、少なくともそれが商業空間で行われるかぎり、個人の内面に閉じた純粋なものではありえない。江戸時代にない言葉でいえば「UX(ユーザーエクスペリエンス)」を高めるために、気持ちよく、快適に、わかりやすいかたちで作品と対面できるような演出が空間のあらゆる箇所に施されている。「サクラの掛け声」のおかげで私たちは作品の見せ場を把握し、適切なタイミングで感情の高ぶりを享受することができるのだ。

 ケティングが創り出した空間における「サクラ」とは、Blossomsという名前を与えられたパフォーマーたちである。彼らは一人ひとりが個別の人格と属性を備えており、フルフィルメントセンターのなかでトレーニングに励んでいる。フルフィルメントセンターとは、ネット通販で販売される商品の在庫管理、ピッキング、梱包から配送までを担う物流拠点のことであり、そこで彼らはアートワークと創造的な相互作用を確立するための訓練を受けているのだ。

《Blossoms - fulfilment》の展示風景 Photo by Asuka Yazawa
Webアプリケーション「Root」の画面。筆者のiPhoneでのスクリーンショット

 Blossomsたちにはそれぞれのシフトとタスクがあり、彼らの情報は「Root」と呼ばれるWebアプリケーションでいつでも閲覧することができる。視界を限定する特殊な器具──イブ・ジルマンが1918年に発明したスキアスコープの複製──を使って作品鑑賞のための集中力を高めたり、美術館で様々な作品を鑑賞するときの観客の姿勢──これはジルマンが1916年に「博物館疲労(Museum Fatigue)」というタイトルの記事で紹介・分類したものだ──を取ってヨガのポーズのように静止するトレーニングをしたりしている。ケティングはジルマンを参照しつつ、そこにスマホをかざして展示空間で動画を収録したりセルフィーを撮ったりしながら歩き回るトレーニングを混入させることで、鑑賞がもはや静的なものでも個人の内面に閉じたものでもなくなってしまっている状況を示唆している。作品に正対して微動だにせずじっと作品を眺める「深い」鑑賞と、スマートフォンをかざして映える構図を探しながら歩き回る「浅い」鑑賞の優劣がそこで取り沙汰されているわけではない。Blossomsたちはどの訓練も淡々とこなしていく。なかには、バットの素振りのようにスープの入った容器を絵画に投げつける練習をしている者さえいる始末だ。

 約90分間のルーティンのなかで、彼らは場内を歩き回りながら自分のタスクをこなしていく。その過程で、ケティングの作品を鑑賞しにきた私たちとほとんど同じような振る舞いを彼らがすることもあるため、観客によっては誰がBlossomsで誰が観客なのか区別することの難しい瞬間もあっただろう。というのも、展示空間となった倉庫内には、観客と同じように動き回るBlossomsと作家の問題意識を匂わせるいくつかのオブジェクト以外には、観客の視線を集める中心としての「作品」が存在しなかったからである。美術館では、自分たちよりも先に入場していた観客の視線や振る舞いが、作品のありか、そして見所へと私たちを導いてくれる──それが、作品の収められたガラスケースにぶちまけられたスープであっても。しかし、ケティングの創り出した展示空間には鑑賞行為だけが存在し、その先に何もないのだ。複数台並べられた大型LEDとスマートフォンで参照可能なWebアプリケーションに表示されるキャプションも、私たちが空間のどこで何を(誰を)鑑賞したらいいのかまでは教えてくれない。ところが、観客に紛れ込んだBlossomsたちは鑑賞すべき作品が不在であることなど意に介さない。彼らは、どこにも作品がないこの倉庫空間で鑑賞行為そのものに没頭(イマースト)し、すでに満たされ(フルフィルド)ている。

《Blossoms - fulfilment》の展示風景 Photo by Asuka Yazawa
《Blossoms - fulfilment》の展示風景 Photo by Asuka Yazawa

 リスボンの現代美術センターでBlossomsたちが放たれたときは、そこら中に鑑賞すべき作品があった。彼らはそこが企画展の展示室なのか常設展の展示室なのか、ホワイエなのかを気にすることなく、館内を鑑賞して回っていた。なんなら彼らは、私たちよりも先に美術館に入場していた観客として私たちの視線を作品へと導いてくれてもいただろう。彼らの存在が来場者たちに喚起したのは、まったく同じ姿勢で作品を鑑賞している私とこのBlossomsたちの違いはなんだろうか、という問いだったかもしれない。外部から捉えられた鑑賞行為からは推し量ることのできない内面の動き、美術鑑賞のクオリアの存在論が立ち上がり、Blossomsたちは人間のマネをしているだけの美学的ゾンビなのではないか、という疑いが喚起されることもあっただろう。当然ながら、そのような疑いはすぐさま「本当の鑑賞者」であったはずの自分に跳ね返ってくる。むしろ自分たちこそ、作品から受け取るべきものを何も受け取れていないまま、鑑賞者のような姿勢を取っているだけの美学的ゾンビなのではないか?

 天王洲で行われた “fulfilment” は、リスボンの前史、エピソード・ゼロだ。鑑賞すべき作品も置かれていないフルフィルメントセンターで訓練されているBlossomsたちは、やがてリスボンのグルベンキアン現代美術センターに、そして世界各地のアート空間に出荷される時を待っている。ケティングはこれまでの活動のなかで、倉庫を再活用したリハーサルスタジオやトレーニングスペースを利用した経験から、表現者の身体が訓練・編集される場として倉庫空間を捉えている。しかし、本来であればそこで訓練される表現者の身体は、鑑賞するための身体ではなく鑑賞されるための身体であったはずだ。表現が磨かれるはずの場所を、ケティングは鑑賞の訓練が行われる場所として捉え直した。

 この捉え直しが意味するのは、通俗的な美術鑑賞の図式の逆転である。ふつうは、作品のなかに何か鑑賞されるべき美的な価値があり、それを適切に享受するために鑑賞という態度で作品に臨む、と思われている。ところが、Blossomsたちが鑑賞する主体として訓練され出荷されていった世界で生じているのは、鑑賞する主体のほうが先に存在し、その視線の先にあるものが、事後的に鑑賞されるべき作品になるという転倒した事態にほかならない。天王洲に現れたのは、鑑賞行為だけがそこにあり、作品が不在でもまったく問題のないアート空間だ。これは現実離れした問題提起だろうか? あらかじめ作家の権威を信じ、見所を把握して、フォトスポットにスマートフォンを持って人々が押し寄せるアート空間では、鑑賞する主体──Blossomsたち──こそが、そこにたまたま置かれた作品の価値を担保しているのではないか。

 だとすれば、作品が不在で鑑賞者しか存在しない天王洲の倉庫こそが、美的価値を生産し世界中に出荷する物流拠点ということになる。瞑想して集中力を高め、様々な鑑賞の姿勢をマスターしていくBlossomsの育成プロセスは、作品の制作の外部にありながらそれらの価値を生みだす投機的な仕組みになっている。鑑賞の訓練によって私たちは、まだ存在しない作品の幻影に没頭する。そうやって美術鑑賞の「期待値」を高め、先物取引の最終決済のように実際の作品を「鑑賞」する。ケティングが天王洲に創り出したフルフィルメントセンターとは、美術館でもアトリエでもなく、それら美術的な実践の外部にあって「名作」や「話題のアーティスト」、「正しい鑑賞の在り方」や「アート界ゴシップ」を云々している私たちのコミュニケーション空間そのものなのだ。そんな穿った目線で見るならば、実際の鑑賞とはそれらのコミュニケーション空間にあらかじめ投機しておいた期待値を回収していく営みに過ぎない。「趣味はなんですか?」と尋ねられて「美術鑑賞です」と回答するときに感じるあの落ち着かなさは、私たちが美的な価値を享受しているのではなく投機していることに由来する、金融的な不安なのかもしれない。