鑑賞者、出荷準備完了。田村正資評「ナイル・ケティング Blossoms-fulfilment」展
寺田倉庫がTokyo Gendaiと連携し、天王洲で開催した「TENNOZ ART WEEK 2025」。その目玉のひとつとして、寺田倉庫G3ではナイル・ケティングが日本で約10年ぶりとなる大規模な作品《Blossoms – fulfilment》を発表した。展覧会の「鑑賞(者)」に着目したパフォーマティブ・インスタレーションを、哲学者・田村正資がレビューする。

「鑑賞する」とはどういうことか?
「趣味はなんですか?」と尋ねられて「映画鑑賞」や「美術鑑賞」と答えるとき、なにか気恥ずかしさを感じてしまう。好きなものを訊かれてたんに「映画」や「アート」と答えるときには出てこないこのむず痒さは、おそらく「鑑賞」という言葉の響きに由来している。嘘はついていないつもりなのだが、パッと出てくるこの言葉が実態に即したものなのか、自信がない。つまるところ、鑑賞という言葉は、そこで吟味される作品や対象よりもそれらの前に立つ私たちの姿勢を評価するものであるがゆえに、何か私たちを落ち着かなくさせる響きをもっているのだ。
だからこのように問いかけてみよう。趣味という言葉にまとわりついたフォーマルな調子に引っ張られて出てくる「鑑賞」という言葉は、自分が「映画」や「アート」を好んでいること以上の何を担保しているのだろうか。映画館や展覧会に行くことと、作品を鑑賞することのあいだには、私たちのどんな実践が位置づけられるべきなのだろうか。というか、そこにはなにか埋めなければいけないギャップがあるのだろうか。
2025年9月に東京・天王洲で開催されたナイル・ケティングの「Blossoms - fulfilment」展は、鑑賞という言葉がもたらす落ち着かなさそのものを呈示する試みのように思われた。《Blossoms – fulfilment》は、倉庫空間に配置されたオブジェクトと空間内を動き回るパフォーマーを組み合わせたパフォーマティブ・インスタレーションであり、ケティングが2024年にリスボンにあるグルベンキアン現代美術センター(Centro de Arte Moderna、通称CAM)」で発表した「Blossoms」に連なるシリーズとして新たに制作された作品である。
《Blossoms》というタイトルの由来は、江戸時代の歌舞伎で用いられた隠語の「サクラ」だ。歌舞伎で舞台からもっとも遠い客席のことを「大向こう」というが、劇の見せ場ではこの席から屋号などの掛け声が入る慣例がある。この掛け声が的確なタイミングで入るかどうかによって公演の盛り上がりが左右されることや、そもそも掛け声が演出の一部となっている劇があることから、芝居小屋が客を大向こうにタダで座らせる代わりに掛け声を依頼するようになり、そのときに用いられた隠語が「サクラ」であるという説がある。いまでは、主催者からなんらかのインセンティブをもらってイベント会場やお店に出没し、場が賑わっているように見せかける偽物の客のことを指すスラングとなった。
鑑賞行為というのは、少なくともそれが商業空間で行われるかぎり、個人の内面に閉じた純粋なものではありえない。江戸時代にない言葉でいえば「UX(ユーザーエクスペリエンス)」を高めるために、気持ちよく、快適に、わかりやすいかたちで作品と対面できるような演出が空間のあらゆる箇所に施されている。「サクラの掛け声」のおかげで私たちは作品の見せ場を把握し、適切なタイミングで感情の高ぶりを享受することができるのだ。
ケティングが創り出した空間における「サクラ」とは、Blossomsという名前を与えられたパフォーマーたちである。彼らは一人ひとりが個別の人格と属性を備えており、フルフィルメントセンターのなかでトレーニングに励んでいる。フルフィルメントセンターとは、ネット通販で販売される商品の在庫管理、ピッキング、梱包から配送までを担う物流拠点のことであり、そこで彼らはアートワークと創造的な相互作用を確立するための訓練を受けているのだ。


Blossomsたちにはそれぞれのシフトとタスクがあり、彼らの情報は「Root」と呼ばれるWebアプリケーションでいつでも閲覧することができる。視界を限定する特殊な器具──イブ・ジルマンが1918年に発明したスキアスコープの複製──を使って作品鑑賞のための集中力を高めたり、美術館で様々な作品を鑑賞するときの観客の姿勢──これはジルマンが1916年に「博物館疲労(Museum Fatigue)」というタイトルの記事で紹介・分類したものだ──を取ってヨガのポーズのように静止するトレーニングをしたりしている。ケティングはジルマンを参照しつつ、そこにスマホをかざして展示空間で動画を収録したりセルフィーを撮ったりしながら歩き回るトレーニングを混入させることで、鑑賞がもはや静的なものでも個人の内面に閉じたものでもなくなってしまっている状況を示唆している。作品に正対して微動だにせずじっと作品を眺める「深い」鑑賞と、スマートフォンをかざして映える構図を探しながら歩き回る「浅い」鑑賞の優劣がそこで取り沙汰されているわけではない。Blossomsたちはどの訓練も淡々とこなしていく。なかには、バットの素振りのようにスープの入った容器を絵画に投げつける練習をしている者さえいる始末だ。
約90分間のルーティンのなかで、彼らは場内を歩き回りながら自分のタスクをこなしていく。その過程で、ケティングの作品を鑑賞しにきた私たちとほとんど同じような振る舞いを彼らがすることもあるため、観客によっては誰がBlossomsで誰が観客なのか区別することの難しい瞬間もあっただろう。というのも、展示空間となった倉庫内には、観客と同じように動き回るBlossomsと作家の問題意識を匂わせるいくつかのオブジェクト以外には、観客の視線を集める中心としての「作品」が存在しなかったからである。美術館では、自分たちよりも先に入場していた観客の視線や振る舞いが、作品のありか、そして見所へと私たちを導いてくれる──それが、作品の収められたガラスケースにぶちまけられたスープであっても。しかし、ケティングの創り出した展示空間には鑑賞行為だけが存在し、その先に何もないのだ。複数台並べられた大型LEDとスマートフォンで参照可能なWebアプリケーションに表示されるキャプションも、私たちが空間のどこで何を(誰を)鑑賞したらいいのかまでは教えてくれない。ところが、観客に紛れ込んだBlossomsたちは鑑賞すべき作品が不在であることなど意に介さない。彼らは、どこにも作品がないこの倉庫空間で鑑賞行為そのものに没頭(イマースト)し、すでに満たされ(フルフィルド)ている。

