2026.9.26

草間彌生、最後の展覧会。アムステルダムでたどる70年余りの創作

草間彌生の大規模回顧展「Yayoi Kusama」が、アムステルダム市立美術館で開幕した。開催直前の8月14日に97歳で逝去した草間にとって、自ら携わった最後の展覧会となる。70年以上にわたる創作をたどる会場から、その生涯を貫いた表現と思想をレポートする。※9月27日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

文=貝谷若菜

「Yayoi Kusama」展(アムステルダム市立美術館、2026)より Photo by Peter Tijhuis © YAYOI KUSAMA
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 9月11日、アムステルダム市立美術館で草間彌生の大規模回顧展「Yayoi Kusama」が開幕した。開催直前の8月14日に草間が97歳で逝去したことを受け、同館は本展を、70年以上にわたる草間の創作活動とその生涯を称える追悼展として開催すると発表した。また本展は、草間本人が携わった最後の展覧会となった。

 スイス・バーゼルのバイエラー財団美術館、ドイツ・ケルンのルートヴィヒ美術館との共同企画による本展は、3館を巡回する展覧会。最終会場のアムステルダム市立美術館は、開幕にあたりファサードをカラフルな水玉模様で飾り、来場者を迎えた。

ファサードをカラフルな水玉模様で飾ったアムステルダム市立美術館 Photo by Peter Tijhuis

「Yayoi Kusama」展が照射する草間彌生

 世界が注目するなかで開幕した本展が焦点を当てるのは、幼少期の作品から最晩年の作品まで、草間彌生の生涯と創作活動である。そのなかで、オランダでの活動時期にも触れる。大まかな時系列に沿って構成された展示では、絵画、彫刻、インスタレーションにとどまらず、詩や小説、ファッション、ハプニングなど、あらゆる手法や表現を通じて芸術に挑んだ草間の歩みが、膨大なリサーチとアーカイブをもとに展開される。多岐にわたる作品と資料を一堂に紹介するにあたり、館内の空間を最大限に利用した。

 本展のキュレーターを務めたアムステルダム市立美術館のレオンティーヌ・クーレワイは、「展示を通して見えてくるのは、彼女の生涯にわたる創作の連続性です。初期作品に芽生えたアイデアが、最新作に至るまでかたちを変えながら受け継がれています」と開幕会見で述べた。

太平洋を渡りニューヨークへ

 1929年、長野県松本市に生まれた草間は、幼少期から不安症や幻覚に悩まされていた。10歳頃には、視界が水玉や網目模様に覆われる幻覚や幻聴を体験し、恐怖に対処する手段として絵を描き始めた。

草間彌生《無題》(1939)紙に鉛筆 24.8×22.5 cm 作家蔵 © YAYOI KUSAMA

 展示の冒頭では、幼少期に描いた、水玉模様に覆われた母の肖像画をはじめ、京都市立美術工芸学校で日本画を学んでいた1940年代後半の作品、さらに、保守的な教育に窮屈さを感じながら抽象的な作品を制作していた50年代の作品までを紹介。日本での初期の活動と、当時の草間が置かれていた状況を、時系列に沿ってひも解いていく。57年に渡米した草間を後押しした、アメリカ・モダニズムを代表する女性作家ジョージア・オキーフ(1887〜1986)との文通も展示されている。

 舞台がアメリカへと移ると、展示空間も一変する。ニューヨークでの芸術的な解放を象徴するように、天井の高い空間に大規模な作品が並ぶ。なかでも、草間が渡米時に飛行機の窓から見下ろした太平洋の広がりを描いた《パシフィック・オーシャン》(1958)は、草間が無数の網目を描き始めた初期の作品でもある。

草間彌生《パシフィック・オーシャン》(1958) 撮影:筆者

 1959年、草間はニューヨークで初めての個展を開催し、のちに「無限の網」シリーズとして知られることになる《Untitled (No. White A.Z.)》(1958–59)をはじめとする作品を発表した。巨大なキャンバスに無数の小さなループを描き、それを連ねた網目状のパターンが広がる。作品をじっとみていると錯覚にも似た感覚に陥る。

 当時、『Art News』の批評家でもあり、後にミニマル・アートを代表する人物となるドナルド・ジャッドは展評のなかで、次のように書いている。

草間彌生は独創的な画家である。この展覧会に出品された5点の巨大な白い絵画は、力強く、先進的な構想を持ち、見事に実現されている。……その効果は、複雑であると同時にシンプルでもある。……その表現は、それが東洋的なものなのかアメリカ的なものなのか、という問いを超越している(*1)。

 これは、当時の草間の作品が、ニューヨークのアートシーンにどれほど鮮烈な印象を与えたかを物語っている。

*1──ドナルド・ジャッド「Reviews and Previews: New Names This Month」『Art News』第58巻第6号、1959年10月、17頁。Jones 2022、214頁より引用。筆者翻訳。

草間彌生とオランダの前衛、Nul(ヌル)運動

 草間のニューヨーク時代として知られる1960年代には、オランダにも長期滞在し、制作を行った。1962年と65年には、前衛アーティストたちによる「Nul(ヌル)」の展覧会に参加し、アムステルダム市立美術館でも新作を発表した。

 《Aggregation: One Thousand Boats Show》(1963)は、無数の白い男根状の突起で覆われた手漕ぎボートと、その船底に置かれた2足の白いハイヒールからなる。作品は黒い部屋に設置され、壁と床には、同じボートを999回描いた壁紙が一面に貼られている。この作品は、彼女の没入型インスタレーション作品への先駆けとしても位置付けられる。作品は展覧会後に、草間自身によって同館に寄贈された。

草間彌生《Aggregation: One Thousand Boats Show》(1963)  撮影:筆者

 批評家、ブライアン・オドハティは「この真に奇妙で、どこか詩的な出来事を、たんなるシュルレアリスム的な悪ふざけとして片付けるべきではない。草間は、奇妙にも心を動かすオブジェと環境を生み出した」と評した(*2)。

 当時はまだ知る人ぞ知る存在だった草間。クーレワイは、回顧展の開催にあたり、4年前に展覧会への招待状を送った際のことを振り返り、「とても前向きに承諾してくれ、1960年代に展示を行った当館のことも覚えていてくれたようだった」と話す。

1965年の「Nul」のオープニングにて着物姿で現れた草間彌生(中央) Photograph by André Morain and Ad Petersen (montage). Collection Stedelijk Museum Amsterdam, courtesy 0-INSTITUTE

 1965年の「Nul」のオープニングで撮影された写真には、グレーのスーツ姿の男性たちに囲まれ、中央に着物姿の草間が映っている。草間は、海外でのパフォーマンスやオープニングには着物で登場することが多かった。これは、当時のニューヨークで、女性でありアジア系の作家として向けられたステレオタイプを、あえて誇張し、作品を通して覆していく行為でもあった。

草間彌生《Walking Piece》(1966) 撮影:筆者
24枚の写真を通して、おさげ髪にピンクの着物をまとい、造花で飾られた傘を手にして、控えめで、受動的な女性を涙を拭う姿やうつむき加減で演じ、ニューヨークの人影のない通りや工業地帯を歩いた。本作ではといった特徴を誇張し、アジア人女性に対して社会がもつ固定観念を正面から問いかけた

*2──ブライアン・オドハティ、無題のレビュー『New York Times』、1963年12月29日。Zelevansky et al. 1998、174頁より引用。筆者翻訳。

個から全体へ

 1960年代後半は、公民権運動やベトナム戦争への反対運動が広がり、アメリカ社会が大きく揺れ動いた時代だった。そんななか、67年6月、草間は「ボディ・フェスティバル」を開催。最初のパフォーマンス《Self-Obliteration: An Audio-Visual-Light Performance》(1967)では、紫外線の下、水着姿のモデルたちの身体に蛍光色の水玉を描いた。同年秋にはオランダ各地でも同パフォーマンスを行い、やがて草間の「ハプニング」は、性の解放や反戦といった当時の社会運動とも結びつき、より政治的な性格を強めていった。《Anatomic Explosions》(1968)では、若いパフォーマーたちにニューヨーク各地で彼らに裸体でパフォーマンスを行わせた。

ニューヨークのブルックリン・ブリッジで行われた《Anatomic Explosion》(1968)のハプニング ゲティ研究所(ロサンゼルス)蔵 ロイ・リキテンスタイン財団より、ハリー・シャンクとヤーノシュ・ケンダーを記念して寄贈 Photo by Shunk-Kender © J. Paul Getty Trust

 無数の点が集まってひとつの模様をつくるように、個人もまた大きな環境の一部となる。身体を水玉で覆う行為は、自我やエゴの境界を曖昧にし、他者や周囲の環境との一体化させる。この人物と背景を同化させる表現は、幼少期に描いた母の肖像画からの延長でもある。

死から再生へ

 草間彌生は1973年に日本へ帰国した。前年にニューヨーク時代の親友ジョセフ・コーネル(1903〜1972)を亡くし、74年には父親の死も経験した。2人の死は、草間のなかに強い喪失感と空虚感を残した。当時、彼女を支えたのは詩や小説など文章を書くことだった。

 また当時、激しい幻覚や鬱に悩まされていた草間は、東京の病院に自ら入院することを決めた。日本社会の保守性に苦しみ、ニューヨークで行ってきた急進的な「ハプニング」や、それをめぐるスキャンダルについて、批判的な報道を受けたが、草間は創作を続け、1978年には初の長編小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を刊行した。

 「死」と「生命の力」というテーマは、草間の創作を同時に突き動かしていた。それは、1975年に制作された何百点ものドローイングやコラージュにも表れている。

かぼちゃ、無限の鏡の間

 草間彌生のアイコンともいえる、かぼちゃの彫刻や絵画も展示室に並ぶ。1980年代初頭から、かぼちゃは草間の作品における重要なモチーフとなってきた。その背景には、農村で過ごした幼少期の記憶がある。植木・苗木業を営む家庭で、植物や自然に囲まれて育った草間。祖父と花畑を歩いていたときに、人間の頭ほどの大きさのかぼちゃに出会い、その愛らしく人懐っこいかたちと、おおらかで気取らない姿に魅了されたという。

かぼちゃの彫刻や絵画が並ぶ展示室。奥のインスタレーションは《生命(REPETITIVE VISION)》(1998) Photo by Peter Tijhuis © YAYOI KUSAMA

 さらに展示室を進むと、「わが永遠の魂」シリーズ(2009–21)の2メートル弱の大きな正方形のキャンバスに囲まれた空間が現れる。その中央に置かれているのが、80センチ四方の《天国へのぼった階段で見た宇宙の姿》(2021)だ。鏡張りの側面のカラフルな窓を覗き込むと、万華鏡のように無限の鏡の間の世界が広がる。

「わが永遠の魂」シリーズ(2009–21)の展示風景 Photo by Peter Tijhuis © YAYOI KUSAMA

 その先では、対照的に、小型のキャンバスを用いた草間の最新シリーズ「毎日愛について祈っている」(※制作年入れる)の作品が壁一面に並び、その中央には、巨大な《無限の鏡の間》(2025)が設置されている。

草間彌生《天国へのぼった階段で見た宇宙の姿》(2021) 撮影:筆者
草間彌生《Infinity Mirrored Room—Illusion Inside the Heart》(2025)内部 鏡面仕上げステンレス、ガラスミラー、着色アクリル 300×300×300 cm 作家蔵 Courtesy of Ota Fine Arts Photo by Peter Tijhuis © YAYOI KUSAMA

 2階には、本展のために特別に制作された《Infinity Mirrored Room—The Hope of the Polka Dots Buried in Infinity Will Eternally Cover the Universe》(2025)が待ち受ける。無限の鏡の間の仕組みを取り入れた巨大なインスタレーションで、空間を埋め尽くす黄色い触手のような形態のオブジェは、《生命(REPETITIVE VISION)》(1998)にも登場したものだ。壁、床、天井にも同じパターンが繰り返され、中央に置かれた鏡の立方体がそれらをさらに反射する。その内部にも同じ光景が広がり、空間はどこまでも増殖していく。一点の水玉から始まり、身体、空間、そして宇宙へと広がっていく反復。展示の最後で観客は、その果てしない増殖のなかに身を置き、草間が長年追い求めてきた「永遠」や「宇宙」を体感する。

草間彌生《Infinity Mirrored Room – The Hope of the Polka Dots Buried in Infinity Will Eternally Cover the Universe》(2025)部分 ミクストメディア Photo by Peter Tijhuis © YAYOI KUSAMA

 「私は、全身全霊の声で、人間の生命と、その永遠の輝きを讃えてきました。いま、人生という喜びに満ちた祭典のただなかで、無限に広がる時空の中に身を置きながら、真理を追い求めています。世界平和への希望と熱い願いを胸に、私の人間への情熱的な賛歌が、皆さんを勇気づけ、インスピレーションを与えることを願っています」。

 これは、今回の展覧会に際して行われたインタビューで、草間が語った言葉だ。幼少期の幻覚体験から生まれた水玉や網目は、やがて身体や空間へと広がり、最晩年には「永遠」や「宇宙」へとつながっていった。本展は、その70年以上にわたる創作を、ひとつながりの軌跡として見渡す機会となっている。