2026.2.27

「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」(長野県伊那文化会館)会場レポート。生活の延長にこそ前衛が宿る

長野県伊那市の長野県伊那文化会館で60〜70年代に諏訪地方を中心に活動した前衛芸術を再考する「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」が開催されている。会期は3月1日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(編集部)

「山式・雪の会座」のパフォーマンスの記録
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 長野・伊那市の長野県伊那文化会館で「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」が開催されている。会期は3月1日まで。担当は同館学芸員の木内真由美。

長野県伊那文化会館の外観

 担当の木内は長野県立美術館で2022年に開催された「生誕100年 松澤宥」を同館の学芸員(当時)として手がけた。長野県下諏訪町出身の美術家・松澤宥(1922〜2006)の生涯とその思想を丁寧に追った同展は、松澤の活動の全貌に迫るものとして意義深いものだった。いっぽうで、とくに諏訪を中心に松澤の周囲で活動していた前衛的表現者については、同展を契機に本格的な研究が始められたものも多い。「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」は、この研究に取り組んできた木内の現時点での成果が実った展覧会といえるだろう。また、本展は、木内とともに長らく調査研究に取り組んできた戦後美術研究者の細谷修平が代表を務める、一般社団法人戦後芸術資料保存が共同監修を担っている。地域の芸術表現の軌跡をより深く掘り下げて分析し、展覧会に結実させるために、外部の専門家との共同を意欲的に行っていることも、今日における先進的な取り組みと言える。

右が松澤宥《天の空へ向け両心臓を飛ばす儀執行》(1971、安倍道明撮影)の記録写真

 展覧会タイトルにある「かみ派」とは、「もの派」を意識したもので、松澤周辺の作家たちの紙を媒体とした非物質的な表現や記録によるその活動を総評できるため、一部の作家や批評家によって用いられていた呼称だ。今回採用した木内も「当時の作家たちが自らを称する言葉として用いていたわけではない」ということを強調した。

 本展の展示構成は、展示室の外枠を当時集団で行われていたイベント資料、内枠をそこに参加していた各作家の紹介というかたちでまとめられていることが特徴だ。こうした発表と作家を分ける展示方法は、「かみ派」の芸術がつねに流動的であり、企画ごとに様々な作家が入り乱れていたことを端的に表しているといえる。

展示室。外周がイベントの紹介、中央が各作家の紹介となっている

長野で行われた企画の数々を資料とともに紹介

 まずは、会場で紹介されている展覧会やイベントを大まかな年代順に見ていきたい。1969年、長野県信濃美術館(現・長野県立美術館)で自主企画展覧会「美術という幻想の終焉」展が開催された。これは「作品をつくること」を放棄し、芸術の、あるいは芸術による「完全な開放」を希求することを謳った展覧会で、松澤をはじめとした長野県出身の作家たち、そして批評家の中原佑介が選んだ作家たちによって行われた。内容の詳細は不明なものの、鑑賞者による主体的な参加によって成り立つ展覧会であったことが察せられ、松澤は「自筆年譜」(『機關』13号、1982年9月)において、「日本で始めての概念美術の展覧会であった」と評している。

「美術という幻想の終焉」のポスターなど

 翌年の70年、前衛芸術家としてすでに高い評価を得ていた松澤は、若手作家たちとともに京都市美術館で「ニルヴァーナ 最終美術のために」を開催。これは松澤の「ニルヴァーナにつどう表現者たちを『核運動体連合』と呼び、それぞれの存在を尊重し、各々の活動を見守り、助言し、協働した先に、まだ見ぬニルヴァーナ(最終美術)がある」(「ニルヴァーナ 最終美術のために」ステートメントより)という思想をもとに開催されたものだ。

「ニルヴァーナ 最終美術のために」が誌面で呼びかけられた『美術手帖』1970年3月号

 こうした動きに呼応するように、諏訪では71年に「白い時の会」を主宰していた上諏訪在住の金子昭二(1927〜2017)によって、イベント「白い思想、その旅立ち宣言」が行われる。これは金子の自宅裏庭に10平米の穴を掘り、そこに作品と白樺を植えることで、やがて「思想」が誕生するというものだ。同じく71年には田中孝道(1945〜)の発案により、「音」をめぐるイベント「音会(おんえ)」が、下諏訪山中につくられた樹上小屋「泉水入瞑想台」と周辺の森で開催される。いずれも松澤が参加しており、参加者は松澤が唱えた「ニルヴァーナ(最終美術)」への応答を示した。

 71年末、松澤は「未世に同時に生きるキズナの最後の表現形式で、心の共有のための最初の表現形式」とされる「世界蜂起」の第1回を国内外に要請する。松澤は人類消滅を迎える2222年までのあいだ「世界蜂起」が起こり続けると述べ、そのための観念と行為を各自用意し、その全容を文章や写真、フィルムなどに記録して松澤が自邸に用意した「虚空間状況探知センター」に送付せよ、と呼びかけた。この呼びかけに応じて松澤のもとに送られた作品は『美術手帖』1972年11月号などに掲載され、全国的な表現のネットワークを広げていくひとつの契機となった。

「白い思想、その旅立ち宣言」(1971)の参加者たちの写真、穴を掘り、文や写真を埋める
「音会」(1971)参加者の集合写真(右)
「音会」(1971)に寄せられた作品群
松澤の「世界蜂起」の要請文。第3回まで行われた

 72年、地元テレビ局・SBC信越放送の番組「ズームイン信州」からの出演依頼があった春原敏之(1942〜)と杉村俊明(1945〜)は、田中と「音会」に続く試みとして「山式(やましき)・雪の会座(かいざ)」を企画。「ニルヴァーナ(最終美術)」に関わる作家たちの姿勢をテレビ放送によって広く届けようという試みのもと、2月の零下15度になる樹上小屋「泉水入瞑想台」で様々なパフォーマンスを繰り広げた。これは後に特別番組としてまとめられSBCで放送されたという。テレビ放送というメディアを前衛芸術家たちが意識的に利用した事例のひとつとして記録される。

 同年3月の自主企画展「ひらかれている」は、松澤、水上旬(1938〜2019)、田中、春原によって企画され、長野県信濃美術館の展示室だけでなく、美術館の建つ城山公園、さらにその敷地を越えて町中に展示を展開。近隣の神社でもパフォーマンスが行われたという。本展には、50年代に丸木位里・赤松俊子夫妻の《原爆の図》の全国巡回を手がけたことでも知られる美術評論家のヨシダ・ヨシエ(1929〜2016)が、「メタ展覧会」とでも言うべきコンセプトをテキストとして寄せている。

「山式・雪の会座」(1972)に寄せられた作品群
「山式・雪の会座」(1972)のパフォーマンスの記録
「ひらかれている」(1972)の4色のポスター

 72年の終わりになると、松澤はさらなる概念「カタストロフィー・アート(破局芸術)」を提唱。これは現代の物質文明の繁栄からくる危機意識を背景にしている。ミラノ、東京で「カタストロフィー・アート」展が開催され、20名を超える作家たちの文字や写真による紙を中心とした作品が出品された。

 その後、松澤はシンポジウムなどを通して、自身の思想を国際的な芸術家ネットワークへと接続することを試みる。77年、磯崎新、粟津潔、工藤哲巳とともに松澤が参加した「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」はその試みのひとつの集大成といえよう。ここで松澤は仏教思想に基づく《九想の室》を出品し、これまで「ニルヴァーナ(最終美術)」の思想をもとに共働してきた、いわゆる「ニルヴァーナ・コミューン」の21作家たちによるパフォーマンスの写真を展示。世界に紹介した。

 いっぽうで担当学芸員の木内真由美は、本ビエンナーレで展示されたパフォーマンス写真は過去の活動記録の紹介といった趣であり、77年の時点ですでに各作家はそれぞれの表現活動や職務へと向かっていたことを指摘する。各個の前衛的表現はその後も継続するが、「かみ派」をひとまとまりの歴史として考えるときに、このビエンナーレはひとつの区切りと考えていいだろう。

「カタストロフィー・アート」(1972)の案内状や書籍
「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」(1977)の松澤宥の展示記録
「生誕100年 松澤宥」(長野県立美術館、長野、2022)展示風景より、「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」の《九想の室》の再現展示

諏訪に集った個性豊かな前衛たち

 ここからは展示室の中央部で紹介されている、諏訪に集まっていた興味深い作家たちを個別に紹介したい。「かみ派」には、松澤が諏訪実業高校定時制下諏訪分校の数学教諭を勤め上げたように、教職をはじめとする職務をもっていた作家たちが多いことを指摘する。

 例えば青木靖恭(1919〜2010)は松澤と30年以上を同僚として過ごした国語教諭で、50年代よりすでに松澤とともに詩や絵画を中心に表現活動を行っており、「かみ派」の一連の活動にも随所で参加している。

青木靖恭の「わからない芸術」自筆原稿

 松澤の志願弟子であった河津紘(1940〜2011)は長崎県立盲学校の教諭で、「念る三昧行」と名付けた触覚を意識化する一連の試みを実践した。河津は71年、長崎県立美術博物館で「最終美術への招待展」を自主企画。展示室の点灯時間を日々短縮、最終日には完全に消灯するという斬新な試みを行なった。

右は《西に向いて九歩の触足行》のパフォーマンスを行う河津紘、「第14回サンパウロ・ピエンナーレ」(1977)に出展された写真(1977)

 栗山邦正(1937〜2006)は、第30回毎日商業デザイン奨励賞を受賞した経験を持つデザイナーで、商業デザインの分野で働きながら、70年の「ニルヴァーナ 最終美術のために」以降、「ニルヴァーナ・コミューン」に参加。中国や日本の伝統的な宇宙思想をもとにしたパフォーマンスや文字作品を展開した。

《星祭り》(1977)を手に持つ栗山邦正、「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」(1977)に出展された写真(1977)

 各作家たちの前衛的なパフォーマンスの数々も興味深い。前述した樹上小屋「泉水入瞑想台」の考案者でもある田中孝道は、フォッサ・マグナの糸魚川静岡構造線上にある1万個の石に「魔字」を書きながら糸魚川を起点に諏訪までを歩く《魔胎ストーン・エイジの到来を予言す》を実施。

《魔胎ストーン・エイジの到来を予言す》のパフォーマンスを行う田中孝道、「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」(1977)に出展された写真(1977)

 藤原和通(1944〜2020)は、石を擦り合わせた振動によるコンサート「音響標定(ECHO LOCATION)」を画廊や道路上で行い、宿沢育夫(1948〜2023)は「音会」で《死型工房》と題し、山中各所に自身の身体を象徴する人形を設置し、念写を試みた球体を樹上で移動させ、音相を記録することを試みた。また、春原敏之は無名性の象徴として「〇〇〇〇」と書いた千社札を街中のいたるところにゲリラ的に貼り、また「〇〇〇〇」と背に書いた白装束を着て死を思わせるパフォーマンスを行なうなどをしている。

《エコー・ロケイション》のパフォーマンスを行う藤原和通、「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」(1977)に出展された写真(1977)
右は《島儀論》のパフォーマンスを行う宿沢育夫、「第14回サンパウロ・ピエンナーレ」に出展された写真(1977)
《雪の中の〇〇〇〇式》のパフォーマンスを行う春原敏之、「第14回サンパウロ・ピエンナーレ」に出展された写真(1977)

 晩年に至るまで東京・国立市で「首くくり栲象」を名乗り、自宅の庭で首を吊るパフォーマンスを続けた古沢宅(1947〜2018)も、「下半身を石膏で固めて「首吊り」を行う《風化》を実施。さらに小林起一(1936〜2006)は「音会」で立木30本余りに白布を巻きつけて冥府を象徴する場を立ち上げた。なお、小林は《百ねり千ぎりの儀》と呼ばれる、独自のうどんづくりの儀式も実施している。

古沢宅《風化》(1977)の告知資料やパフォーマンス写真など
右の写真は《退化宴》をパフォーマンスする小林起ー、「第14回サンパウロ・ピエンナーレ」に出展
出品作品(1977)

 舞踊やダンスを主軸とした表現者たちにも注目したい。「パーリニバーナ・パーリヤーヤ体」は、鈴木裕子(1938〜)、赤土類(1937〜2025)、辻村和子(1941〜2004)の「三体」によって成り、舞踊を主として活動した。その奇妙な名前は松澤によって命名されており、「パーリ」はパーリ語の「完全」の意味を示す「パリ」であり、「ニバーナ」は梵語の「ニルヴァナ」、ヤーヤは「法門」と解いているという。「白い思想、その旅立ち宣言」などに参加した。なお、その後、赤土は独自の表現を探求し89年のサンパウロ・ビエンナーレに招聘、辻村は日本におけるバリ舞踊の先駆者のひとりとなった。

パーリニバーナ・パーリヤーヤ体「Cat Week」のポスター(1972)など

 このように、本展では諏訪に集った表現者たちが、松澤の思想からの影響を受けながらも、独自の活動を試みていたことがよくわかる展示となっている。なかでも、仏教思想への共鳴が共通して見られることが興味深い。作家たちは仏教的価値観を、現代美術において強い影響力を持つ西洋から輸入された思想とは異なる、前衛性の支柱として求めていたとも言えるが、いっぽうで木内は「当時はまだ信仰心が強く残っていたであろう地元長野や地方出身の作家も多く、育つ過程で自然と内面化してきた仏教的価値観に向き合ったともいえるのではないか」と語る。

 たしかにこれら「かみ派」の運動は、松澤をはじめとした観念的で難解な言葉が運動の駆動力になっているものの、いずれのパフォーマンスもどこか生活の延長線にある感覚があり、同人たちが集まり日常的な視点をずらすことを、様々なかたちでおもしろく試みていたという印象を受ける。生涯のほとんどを諏訪で過ごした松澤のように、前衛を地元の生活のなかに宿す、むしろだからこそ前衛が宿るというメッセージを受け取めることができそうだ。本展における「かみ派」という誰もが毎日にように触れている身近な素材名を冠した派閥の提示は、きっとそのような日常との関係において説得力を持つのだろう。