2025.6.24

「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」展(渋谷区立松濤美術館)開幕レポート。自身の芸術を淡々と貫いた作家の生き様に迫る

東京・渋谷にある渋谷区立松濤美術館で、「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」が開幕した。会期は8月17日まで。

文・撮影=大橋ひな子(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、安藤照《忠犬ハチ公》制作年不詳、石膏、谷内眞理子所蔵
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 東京・渋谷にある渋谷区立松濤美術館で、渋谷駅前の初代の忠犬ハチ公像をつくったことで知られる彫刻家・安藤照の没後80年を記念した展覧会「黙然たる反骨 安藤照 ―没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家―」が開幕した。会期は8月17日まで。

 安藤照は1892年鹿児島県鹿児島市生まれ。1917年に東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、在学中の 1921年に帝国美術院展覧会(帝展)で彫刻家としてデビューした。翌年に帝展特選、そして1926年には帝国美術院賞を受賞、その翌年には帝展彫刻部の審査員に任命されるなど、早くからその実力を認められていた。1929年には自身が旗振り役となり、中堅彫刻家の作品研究の場として「塊人社」を結成。その後、1934年には《忠犬ハチ公像》、1937年には《西郷隆盛像》を制作するなど、現代に生きる我々にも馴染み深い作品を手がけた。

 しかし作品がよく知られているのにもかかわらず、作家である安藤の存在はいままであまり語られる機会がなかった。それは安藤が生きた時代が戦禍に巻き込まれたことにも関係しているだろう。

 本展は、安藤の没後80年を記念して、これまで《忠犬ハチ公像》の影に隠れ、語られる機会の少なかった安藤の生涯について紐解く展示となる。戦火をのがれた現存作品約30点やその関連する作家の作品を、全5章を通じてたどる構成だ。

 第1章「梁山泊の中で —安藤照、彫刻家になる」では、安藤の初期作品にくわえ、彼のライバルであった同世代の彫刻家の作品が展示されている。安藤は地元の鹿児島から上京し、早稲田大学部商科へ進学したが、芸術家を志し同校を退学。その後東京美術学校彫刻科塑造部予備科に入学し、師の朝倉文夫や親友となる堀江尚志など、のちに安藤の人生に大きな影響を与えた人々と出会う。

 本章の初めに展示されている《男首》は、在学中に制作した自刻品だと考えられている。当時旧体制が続いていることを問題視されていた同校に、教授として朝倉文夫が着任したことで校内改革が行われた。本作は顔の凹凸を細部まで表す自然主義的な写実性を持ちあわせており、安藤が朝倉の影響を受けたことがわかる。

展示風景より、安藤照《男首》(1921)石膏、東京藝術大学所蔵

 また当時は彫刻家が増えた激動の時代でもあり、朝倉をはじめとした上の世代だけでなく、安藤の同期や後輩も含め、いまもなお歴史に名を残す彫刻家が多く誕生している。会場には彼らの作品が並び、当時の彫刻界の勢いを感じられるともに、それぞれの作家の特徴を比較することも可能だ。

渋谷区立松濤美術館展示風景より

 なかでも、安藤の生涯の親友ともいえる堀江尚志の《ある女》は、会場内でも一際目をひく。本作は帝国美術院第2回美術展覧会の初出品作でありながら、初入選かつ特選となり、大きな話題となったもの。じつは本作出品の裏側には興味深いエピソードがある。本作はもともと堀江の習作であり、完成後には壊す予定だった。しかし完成度の高さに驚いた安藤や松田尚之は、本人に無断で石膏取りを行い、堀江を説得して出品した。

 それが特選になり皆を驚かす出来事となるが、安藤がいかに周囲の仲間との交流を重んじ、かつある種強引なほどの勢いで周りを巻き込み時代を引っ張っていくような人柄だったのかが、このエピソードからわかるだろう。堀江はこの後安藤とともに彫刻界の中堅を担っていく人材となる。

展示風景より、堀江尚志《ある女》(1920)ブロンズ、帝国美術院第2回美術展覧会、岩手県立美術館所蔵

 続いて、第2章「安藤照と動物彫刻」では、動物好きの安藤と、後年に結成した彫刻団体「塊人社」のメンバーの動物彫刻が展示されている。

 本展のメインビジュアルにもなっている《兎》をはじめとしたうさぎモチーフの作品が3つ並んでいるが、それぞれ作者は異なる。真ん中のものが安藤の作品となるが、やはり特徴は塊のような質量を感じさせる作風である。しかし造形の細かさもみて取れることから、安藤の技術の高さもうかがえる。

渋谷区立松濤美術館展示風景より

 また安藤は自身でポインター犬を6〜7匹飼っているほどの犬好きで、モチーフとしても犬を選ぶことは多々あった。のちの忠犬ハチ公像の制作にも、この犬好きが関係している。

展示風景より、安藤照《ポイント第二》(1931)ブロンズ、鹿児島市立美術館所蔵

 そして第3章「鹿児島のために、渋谷のために」では、安藤の故郷である鹿児島ゆかりの作品や、渋谷を代表するモニュメント《忠犬ハチ公像》が展示されている。当時地元を離れ、都心で作品発表を行う作家が多いなか、安藤は生まれ故郷のためにも制作を続けており、西郷像を制作したのもそういった背景が関係している。

 また、代々木初台(現在の代々木五丁目)にアトリエを構えていた安藤は、渋谷という土地にも密接に関わっており、《忠犬ハチ公像》はその象徴ともいえる。ただじつは現在渋谷にある忠犬ハチ公像は二代目であり、安藤が手がけた作品ではない。安藤が制作した初代のものは、1934年に完成したものの、第二次世界大戦末期の1944年に出された金属類回収令によって溶解されてしまう。そのため現在実物を見ることはできず、安藤の長男・士(たけし)が初代をモデルに制作した二代目が渋谷駅前に置かれている。

 会場では、小型の初代《忠犬ハチ公像》が3つ並んでいるが、左2つがいわゆる渋谷のモニュメントとなっている《忠犬ハチ公像》だ。真ん中のものは石膏原型であり、安藤自身が作成したもの。それを元にテラコッタで制作したものが並んでいる。

展示風景より、安藤照《忠犬ハチ公》制作年不詳、石膏、谷内眞理子所蔵

 当時大きなモニュメントをつくる際は、募金を募り、募金をしてくれた人には返礼品をわたすという、いまでいうクラウドファンディング形式的な資金調達を行うことが多かった。その返礼品としてつくられた小型のものが、会場に展示されている。焼け跡の中から見つけ出されたこれらは、初代《忠犬ハチ公像》の面影を感じられる大変貴重なものだ。

 本展の第二会場は、同館の地下1階へと続く。第4章「『塊人社』結成 —アラウンド・安藤照」は、1929年に結成された「塊人社」に焦点が当てられた展示。安藤は第8回帝国美術院展覧会の審査員に任命され一目置かれていたが、翌年の第9回同展の審査員選出をめぐって、師の朝倉文夫が自身を含む門下生全員の同展不出品を申し出たことで、安藤も審査員を辞するという大騒動に発展。その後「朝倉塾」を脱退し、周辺の仲間とともに立ち上げたのが「塊人社」である。

 朝倉のもとから離れた門下生たちが、安藤についていくという形で誕生した「塊人社」。会場には塊人社に属した複数の作家の作品が並べられているが、一見するだけではその違いがわからないくらい安藤の作風に似たものが多い。メンバーのなかには安藤を兄のように慕うものもおり、実際安藤が彫刻制作の指導もしていたことから、その作風がメンバー間で浸透したとも考えられる。

渋谷区立松濤美術館展示風景より

 そして本展最後の第5章「迫りくる戦禍 —安藤照の死」では、安藤の晩年となる1931年の満州事変から1941年の太平洋戦争開戦、そして 1945年の安藤の死までを追う内容となっている。

 当時細かい部分の描写を繊細に表現する写実表現が主流だった上に、時代背景から戦争を主題とするような作品が多く制作された。しかし安藤はそんな社会の気風に惑わされることなく、淡々と自身のスタイルで制作を続けた。

展示風景より、伊藤國男《敵陣蹂躙》(1939)ブロンズ、第1回聖戦
美術展、個人蔵

 1942年の太平洋戦争真っ只中に制作された《裸婦座像》は顕著にその姿勢を表している。当時台頭していた戦争テーマでもなく、抽象化や装飾化、表現主義のすすんだ新様式とも違う、安藤らしい物質感のある作品からは、安藤の確固たる意志を感じられる。反戦の姿勢をとっていたわけではないものの、アートと戦争は別物であり、「戦禍においても純粋芸術を続けるべきだ」という安藤の主張が強く現れている。

展示風景より、安藤照《裸婦座像》(1942)ブロンズ、第11回塊人社彫塑展、鹿児島市立美術館所蔵

 しかし時代の波に抗えず、ついに1944年に「塊人社」は、安藤のアトリエを作業所とした軍需工場となり、戦闘機の部品の石膏型を製作するようになった。そして翌年1945年に山の手空襲に襲われ、防空壕の中で家族とともに蒸し焼きにされ、重要作のほとんども焼失された。会場には、安藤の後輩である小室徹が、当時の様子を記した日記が展示されている。

展示風景より、小室徹『日記』(1945)しばたの郷土館所蔵

 戦前、技術も人望もあり勢いに乗っていた安藤。作家としての確固たる意志を貫き活動を続けていても、戦争の波には抗うことができなかった。戦後80年というこのタイミングで、改めて安藤という作家について深く知り、同時に、忘れてはいけない出来事についても考えるきっかけとなることを願う。