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2025.3.4

「ヒルマ・アフ・クリント展」(東京国立近代美術館)開幕レポート。神秘思想で拓いた抽象絵画の世界

スウェーデン出身の画家ヒルマ・アフ・クリント。そのアジア初の大回顧展が、東京国立近代美術館で開幕を迎えた。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

展示風景より、「10の最大物、グループⅣ」(1907)
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 重要な展覧会が東京国立近代美術館で開幕した。スウェーデン出身の画家ヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)によるアジア初の大回顧展「ヒルマ・アフ・クリント展」(共催:日本経済新聞社)だ。担当学芸員は三輪健仁(東京国立近代美術館美術課長)。

 ヒルマ・アフ・クリントはスウェーデンの裕福な家庭に育ち、王立芸術アカデミーを優秀な成績で卒業、職業画家として活動。そのいっぽうで神秘主義思想に傾倒し、交霊術の体験を通してアカデミックな絵画とは異なる抽象表現を生み出した。

 2018年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された回顧展が同館史上最多の60万人を動員。22年には、その存在と画業に迫るドキュメンタリー映画『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』は22年に日本で公開され、多くの人々にその魅了が発見される契機となった。

 そうした流れのなかで開催される本展は、画家の存命中や死後も長らく、ほとんど展示されることのなかった作品約140点が一堂に会する非常に貴重な機会。ヒルマ・アフ・クリントの現代における評価を決定づけた代表的作品群「神殿のための絵画」(1906–1915)を中心に、ノートやスケッチなど絵画以外の資料も展示し、画家の制作の源泉を探るとともに、画業の全貌を紹介するものだ。

 展示は、第1章「アカデミーでの教育から、職業画家へ」、第2章「精神世界の探求」、第3章「神殿のための絵画」、第4章「『神殿のための絵画』以降:人智学への旅」、第5章「体系の完成へ向けて」の、おおむね時系列である全5章で構成されている。

第1章「アカデミーでの教育から、職業画家へ」

 ヒルマ・アフ・クリントの父親ヴィクトルは海軍士官で、天文学、航海術、数学などが身近にある環境は、後のアフ・クリントの制作に大きな影響を与えたという。1882年に王立芸術アカデミーに入学したアフ・クリントは正統的な美術教育を受けることとなった。アカデミー自体は1864年から女性の入学を認めていたものの、女性アーティストの存在は当時のスウェーデンでは数少なかたことは想像に難くない。

 本章では、アカデミー在学中に制作された作品が展覧。人体デッサンや植物図鑑のような写生からは、正確な形態把握、技術の高さがわかることだろう。

展示風景より、《スケッチ、子どもたちのいる農場[『てんとう虫のマリア』]》(制作年不詳)
展示風景より、《フォルム研究、螺旋階段、光と影》(1880)

 その後、1887年にアカデミーを優れた成績で卒業したアフ・クリントは、主に肖像画や風景画を手がける職業画家としてのキャリアを順調にスタートさせた。

第2章「精神世界の探求」

 アフ・クリントを語るうえで欠かせない神秘主義思想。彼女がそこに関心を持ち始めたのは、アカデミーでの美術教育と並行する17歳のときだという。当時のストックホルムには神秘主義的思想を信奉する団体がいくつか存在していたが、アフ・クリントがとくに影響を受けたのはヘレナ・ブラヴァツキー(1831〜1891)が提唱した神智学だった。アフ・クリントは瞑想や交霊の集いに頻繁に参加し、知識を深めていったという。

 キリスト教や神智学などを融合した思想を持つエーデルワイス協会で瞑想や交霊会に参加していたアフ・クリントは、1896年に協会内で親しい4人の女性と「5人(De Fem)」というグループを結成(活動は1908年まで)。5人は交霊術におけるトランス状態において、高次の霊的存在からメッセージを受け取り、それらを自動書記や自動描画によって記録していった。会場では、その名義によるドローイングが展覧。そこには植物や細胞、天体の動きなど、様々なヴァリエーションのモチーフを見ることができる。

展示風景より、5人《無題》(1903)
展示風景より、いずれも5人《無題》(1908)

第3章「神殿のための絵画」

 本展でハイライトとなるのがこの第3章だ。

 1904年、アフ・クリントは「5人」の交霊の集いにおいて、物質世界からの解放や霊的能力を高めることによって人間の進化を目指す、神智学的教えについての絵を描くようにと告げられる。この啓示によって生み出されたのが、全193点からなる「神殿のための絵画」だった。

 「神殿のための絵画」は途中4年の中断期間を挟みつつ、1906年から1915年までの約10年をかけて制作されたもので、アフ・クリントの画業の中核をなす作品群とされている。

 「神殿のための絵画」は、「原初の混沌」「エロス」「10の最大物」「進化」「白鳥」といった複数のシリーズやグループから構成されており、すべてが眼に見えない実在の知覚、探求へと向けられている。その眼に見えない実在の対象は霊的なものに限らず、X線や放射線なども含まれており、精神的・科学的探究の双方が絵画へと具現化されている点に大きな特徴がある。

展示風景より
展示風景より、「進化、WUS /七芒星シリーズ、グループⅥ」(いずれも1908)
展示風景より、「白鳥、SUWシリーズ、グループⅨ:パートⅠ」(1914-1915)

 なかでも大きな存在感を放つのが、10点組の絵画「10の最大物」だろう。これらは、1907年にアフ・クリントが人生の4つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)についての「楽園のように美しい10枚の絵画」を制作する啓示を受けて描いたもの。乾きの早いテンペラ技法により、たった2ヶ月で高さ3メートルもの巨大サイズの絵画10点を制作した。

 背景の色彩によって段階が分かれており、幼年期は青、青年期はオレンジ、成人期はパステル調の紫、老年期はピンクとなっている。神智学における輪廻転生の教えを反映した、No.10から再びNo.1へと戻るような円環構造は、展示構成にも反映されている。

展示風景より、「10の最大物、グループⅣ」(1907)
展示風景より、「10の最大物、グループⅣ」(1907)
展示風景より、「10の最大物、グループⅣ」(1907)
展示風景より、「10の最大物、グループⅣ」(1907)

 この章は、「神殿のための絵画」の集大成として位置づけられる「祭壇画」3点で締めくくられている。モチーフはこそれまでの「神殿のための絵画」と共通するものの、金属箔の使用や「10の最大物」に次ぐサイズ、高い抽象性などから、その重要性が指摘されている。

 なお、会場では「神殿のための絵画」一覧が掲示されているので、その全貌を俯瞰して見る助けとなるだろう。

展示風景より、「祭壇画、グループⅩ」(1915)
展示風景より、「神殿のための絵画」一覧

第4章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅

  第4章では、「神殿のための絵画」完結後の展開が紹介される。1917年の「原子シリーズ」や1920年の「穀物についての作品」などは、自然科学と精神世界双方への関心や、眼に見えない存在の知覚可能性という点で「神殿のための絵画」と連なるものだが、より幾何学性や図式性が増しているのが特徴だという。

展示風景より、「原子シリーズ」(1917)

 1920年に介護していた母親が亡くなると、神智学から分離独立した「人智学」への傾倒を深めていったアフ・クリント。人智学創始者ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)に強い影響を受けた、幾何学的、図式的な作品から、水彩のにじみによる偶然性を活かし、色自体が主題を生み出すような作品へとその表現を変化させていった。

展示風景より、「シリーズ Ⅴ」(1920)

第5章「体系の完成へ向けて」

 1920年代に始まる水彩を中心とした制作は、人智学や宗教、神話に関わるような具体的モチーフを回帰させながら、晩年まで続く。

展示風景より、《無題》(1934)

 いっぽうで注目すべきは後半生における制作以外の仕事だろう。アフ・クリントは1920年代半ば以降、自身の思想や表現について記した過去のノートを編集・改訂しており、それが後半生における重要な仕事となった。

 なかでも注目したいのは、「神殿のための絵画」を収めるための建築物の構想だ。同作が完了してから15年以上経過した1930年代、作品を収めるための螺旋状の建築物を構想したアフ・クリントは、その内部の具体的な作品配置計画の検討も重ねていたという。

 この神殿は実現しなかったものの、こうした編集・改訂作業は、アフ・クリントの仕事全体が「厳密な体系性」を目指していたことを示している。

展示風景より
展示風景より、1930-31年のノートブック(神殿の計画案、1931)

 グッゲンハイム美術館での回顧展以降、カンディンスキーやモンドリアンに先駆けて抽象絵画を創始したパイオニアとされることが多いアフ・クリント。だがここで、最後に学芸員の三輪による以下の指摘を引用しておきたい。

「未知の女性の画家が美術史を書き換えた、という筋書きは大変に魅力的だが、アフ・クリントの思想や表現が拠って立つパラダイムは、これまでの美術史のパラダイムを無効にしかねない困難な要素を有する。すなわちそれはスピリチュアリズムや秘教的思想を基盤にした制作である。(中略)「オカルトの画家」かつ「抽象のパイオニア」、二つのパラダイムの両立ははたして可能だろうか。モダン・アートの既存のパラダイムは変更することなく安定させたまま、アフ・クリントの作品をそこに位置づけることはできるのだろうか。その問いはいまだ解決されておらず、開かれたままであるように思われる」(公式図録 12頁より抜粋)