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2025.2.15

「異端の奇才―ビアズリー」(三菱一号館美術館)開幕レポート。25年の生涯で1000点以上の作品を残した才を見る

25歳という短い人生ながらも、後世に大きな影響を与えた画家オーブリー・ビアズリー。その回顧展「異端の奇才―ビアズリー」が三菱一号館美術館で始まった。会期は5月11日まで。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

展示風景より、オーブリー・ビアズリー《お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン》(1893)
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 25歳で世を去った英国の異才オーブリー・ビアズリー(1872〜1898)。その回顧展異端の奇才―ビアズリー」が三菱一号館美術館(東京・丸の内)で始まった。会期は5月11日まで。担当学芸員は加藤明子(三菱一号館美術館主任学芸員) 、共催は朝日新聞社。

 オーブリー・ビアズリーは1872年8月、ブライトンで誕生。宝石職人の息子だった父は財産を使い果たし、軍医の娘であった母がフランス語やピアノを教えて家計を支えるという家庭だった。16歳でロンドンに出たビアズリーは保険会社などで働くかたわら、夜間に独学で絵を描き続けた。

 その後、20歳でマロリー著『アーサー王の死』の挿絵を受注したことをきっかけに画業に専念するようになったビアズリーは、オスカー・ワイルド著『サロメ』(1894)の挿絵で成功を収めることとなる。画家として成功したあとも、公的な画壇や特定の流派には属さず、昼間でも分厚いカーテンを閉めて外光を遮断し、蝋燭の灯かりのもとで制作活動を行い、完成前の作品はごく限られた親しい友以外には誰にも見せたがらなかったという。

 25年という短い人生のなかで、1000点以上もの作品を残したビアズリー。本展はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)との共同企画によって、その歩みをたどるものだ。

 会場は「第1章 はじまり」「第2章 初期ビアズリー」「第3章 成功──『ビアズリーの時代』の到来」「第4章 ワイルドの『サロメ』」「第5章 制作の裏側」「第6章 成熟に向けて」の6章構成。初期から晩年までの挿絵や希少な直筆の素描に加え、彩色されたポスターや同時代の装飾など、約200点が並ぶ。

第1章 はじまり

 本章では、初期の傑作《「ジークフリート」第2幕》(1892)や諷刺画の小品が展覧。また、ビアズリーが生涯参照したというアンドレア・マンテーニャの版画や幼少期に愛好したケイト・グリーナウェイの絵本なども並ぶ。

展示風景より、《「ジークフリート」第2幕》(1892)
展示風景より、アンドレア・マンテーニャ《海神の闘い──浅浮彫の右半図》(1481以前)
展示風景より、ケイト・グリーナウェイ『窓の下で──子供のための歌と絵』(1879)

第2章 初期ビアズリー

 1891年夏、E. バーン=ジョーンズからの助言を受けて、人生初の画家修業を数ヶ月ほど経験したビアズリーは、翌年、さらなる転機に恵まれる。書店主F. エヴァンズのもとで彼の素描を見た出版業者J. M. デントから『アーサー王の死』(1893-94)の挿絵一式を依頼された。ここでは、画業への専念を決意し、自身の画風を開花させた書籍とともに、挿絵の一部に目を凝らしてほしい。

 またこの章では、ビアズリーが影響を受けたジェイムズ・マクニール・ホイッスラーやウォルター・クレインらの作品もあわせて楽しみたい。

展示風景より、『アーサー王の死』(1893-94)
展示風景より、オーブリー・ビアズリー《アーサー王は、唸る怪獣に出会う》(1893)
展示風景より、展示風景より、オーブリー・ビアズリー《五月祭で馬を駆るグィネヴィア王妃》(1893-94頃)

第3章 成功──「ビアズリーの時代」の到来 

 1893年春、芸術雑誌『ステューディオ』創刊号で大々的に取り上げられ、20歳のビアズリーは注目の的となった。このとき、大胆な構図の《お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン》が出版業者レインの目に留まり、オスカー・ワイルドの英訳版『サロメ』の挿絵画家に抜擢された。この章では、同作と『ステューディオ』創刊号、そしてサロメの挿絵を連続する流れのなかで見ることができる。

展示風景より
展示風景より、手前はオーブリー・ビアズリー《孔雀の裳裾》(原画1893、印刷1907)
展示風景より、オーブリー・ビアズリー《お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン》(1893)

 一躍、時の人となったビアズリーは革新的な文芸雑誌『イエロー・ブック』の美術編集を任され、成功を謳歌した。その実際の雑誌や掲載作品にも注目したい。

 なお本章では、『サロメ』挿絵に描かれたアングロ=ジャパニーズ様式の調度も見ることができる。日本のモチーフを取り入れながら、当時のイギリス人の好みにあうようにデザインされたこの様式。ビアズリーと同じ時代にオリジナルが建てられた三菱一号館美術館とのリンクに思いを馳せたい。

展示風景より、手前はオーブリー・ビアズリー《『イエロー・ブック』出版案内書の表紙》(1894)
展示風景より
展示風景より

第4章 ワイルドの「サロメ」

 ビアズリーにとって大きな転機となったのが、同性愛の科によるワイルドの逮捕だった。これによりビアズリーも『イエロー・ブック』の美術編集から降ろされ、定収入を失うこととなった。

 ビアズリーにこうした大きな影響を与えたワイルドだが、実際に両者が親しかった期間は1年にも満たなかったという。ビアズリーの挿絵を「たちの悪い落書き」だと一蹴したこともあるワイルドは、本来どのような「サロメ」像を求めていたのか。

 この章では、「サロメ」以外のワイルドの著作全点の装丁を手がけた画家チャールズ・リケッツによる油彩画の《サロメ》(1925)が展示。またギュスターヴ・モローの名作《牢獄のサロメ》(1873〜76頃)をはじめとする多様な「サロメ」を展覧することで、ビアズリーによる大胆な「サロメ」との差異が浮かび上がらせている。

展示風景より、左がチャールズ・リケッツ《サロメ》(1925)
展示風景より、ギュスターヴ・モロー《牢獄のサロメ》(1873〜76頃)
展示風景より、アルフォンス・ミュシャ《サロメ》(1897)

第5章 制作の裏側

 本章では、ビアズリーが最盛期に手に入れ、ワイルド騒動の余波で困窮して手放した机を展示。また背景は、『さかしま』の主人公の自宅を模したというオレンジ色の仕事部屋の壁さながらの色となっており、ごく一部ではあるが、ロンドンの自邸における制作環境が再現された。

展示風景より、ビアズリーが使っていた机

 あわせて注目したいのが、『リューシストラテー』(1896)収録の優品だ。これは、ビアズリーが生活費を稼ぐために手軽な収入源として手がけ、寿命がつきる間際になって処分することを望んだ「卑猥な絵」。なおこの部屋は18歳未満立入禁止となっている。

第6章 成熟に向けて

 一時的な名声を失ってからも、ビアズリーは新たな支援者や仲間を得て、起死回生をはかった。本章では、『髪盗み』(1896)などの装丁や挿絵、ビアズリーが新たに立ち上げた前衛的な文芸雑誌『サヴォイ』(1896)に発表された多彩な作品から、その最後の輝き見ることができるだろう。

展示風景より、『サヴォイ』

 ビアズリーは肺結核を悪化させ、1898年春に他界する。会場の最後を飾るのは、遺作とされる『ヴォルポーネ』(ベン・ジョンソン著)のための頭文字「V」の版画だ。

展示風景より、手前はオーブリー・ビアズリー《財宝に夢中のヴォルポーネ》(1898)
展示風景より、オーブリー・ビアズリー《『ヴォルポーネ』の頭文字V》(1898)

 5年半というわずかな活躍期間に、精力的に画業に取り組んだビアズリー。本展はその画業の全体像をたどれる機会となっている。