2026.7.8

「生誕130年 前田寛治 ポエジイとレアリスム 一九三〇年協会設立100年」(東京ステーションギャラリー)開幕レポート。夭折の画家・前田寛治が追い求めた「生命の写実」

東京ステーションギャラリーで、前田寛治の生誕130年と、前田が設立に加わった「一九三〇年協会」の設立100周年を記念する展覧会「生誕130年 前田寛治 ポエジイとレアリスム 一九三〇年協会設立100年」が開幕した。会期は8月30日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影:大原愛美(編集部)

中央左が前田寛治《裸婦》(1925)、中央が前田寛治《仰臥裸婦》(1925)、中央左が前田寛治《西洋婦人像》(1925頃)
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 東京駅構内の東京ステーションギャラリーで「生誕130年 前田寛治 ポエジイとレアリスム 一九三〇年協会設立100年」が開幕した。会期は8月30日まで。本展では、詩情(ポエジイ)と写実(レアリスム)の両立を追求した画家・前田寛治(1896〜1930)の画業を振り返るとともに、「一九三〇年協会」の画家たちの作品もあわせて紹介。日本近代洋画における前田の位置づけを、同時代の動向とともに再考する。担当は同館学芸員の田中晴子。

 前田寛治は1896年鳥取県生まれ。1920年代の日本洋画壇を代表する画家のひとりとされている。東京美術学校卒業後に渡仏し、西洋近代美術を吸収しながら独自の写実表現を追究。帰国後は「生命の写実」という理念を掲げ、1926年には同世代の画家らとともに一九三〇年協会の設立にも加わるが、34歳で夭折。その活動期間はわずか十数年にとどまる。

会場では前田寛治の作品のほか、交流のあった作家の作品や、写真や資料も展示されている。

 本展は、前田の生誕130年と、一九三〇年協会設立100周年という節目にあわせて開催される18年ぶりの大規模回顧展。油彩画約80点を中心に、スケッチブックや書簡、雑誌などの資料を含む約140点によって、その画業を初期から晩年までたどるとともに、パリ留学時代の盟友グループ「パリーの豚児」の作品や、一九三〇年協会の画家たちの作品もあわせて紹介する。

 展示は全4章で構成される。第1章では東京美術学校時代から渡仏前まで、第2章ではパリ留学期、第3章では帰国後に確立される「生命の写実」、第4章では一九三〇年協会の活動へと続き、第5章では晩年の作品を紹介。1人の画家の歩みを、日本近代洋画史の流れのなかで読み解いていく。

画家としての原点──東京美術学校時代から渡仏前まで

 第1章では、東京美術学校時代から渡仏前までの作品と資料を紹介する。

 前田は1916年に東京美術学校西洋画科へ入学し、藤島武二(1867〜1943)の門下で学んだ。在学中から帝展や二科展へ積極的に出品し、卒業後も同校研究科に在籍しながら制作を続けた。会場には、学生時代からすでに確かな画力を備えていたことを示す作品が並ぶ。

美術学校時代に家族の肖像を描いた作品。左が前田寛治《父の像》(1920)、右が前田寛治《老婆像(祖母の像)》(1921頃)
前田寛治《立てる子供》(1922)

 《立てる子供》(1922)は、姪をモデルに描いた作品で、第9回平和記念東京博覧会西洋画展覧会で受賞した作品。人物を包み込む柔らかな光と重厚な色彩が印象的で、衣服の下に感じられる身体の量感まで捉えようとする眼差しは、後年の写実表現を予感させる。解説では、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834〜1903)やポール・セザンヌ(1839〜1906)からの影響にも触れられており、自然な生命感を備えた人物像として紹介されている。

パリ留学で出会った「ポエジイ」とリアリスム

 1923年、前田はフランスへ渡った。第2章では、約2年半にわたるパリ留学期の作品を紹介する。

中央左が前田寛治《アインシュタイン像(1)》(1922〜23)、右が《アインシュタイン像(2)》(1922〜23)

 パリへ向かう船では、偶然にも物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)と同乗。船内に子供を見つけてはスケッチを繰り返していた前田に「これを描くには、自分自身に童心があるということだ」というドイツ語のコメントを書き添えたという。会場には、アインシュタイン直筆のコメントが記された《子供の顔》(1923)や船内で描かれた《アルベルト・アインシュタイン像》(1922〜23)が展示されている。対象を繰り返し観察し、本質へ迫ろうとする前田の制作態度が、世界的な科学者の目にも印象深く映ったことを物語っているエピソードだ。

左が里見勝蔵《マリーヌの記念》(1924)、中央が中山巍《アトリエの前田と里見》(1929)、右が前田寛治《街の風景》(1924)

 パリでは、のちに日本のフォーヴィズム運動を牽引した里見勝蔵(1895〜1981)やパリの街路を描いた佐伯祐三(1898〜1928)、《マチス礼讃》(1951)で1952年に在野の画家として初めて日本芸術院賞を受賞した中山巍(1893〜1978)ら同世代の作家たちと交流を深め、「パリーの豚児」と呼ばれるグループを結成。中山巍による《アトリエの前田と里見》(1929)は、その交流を象徴する作品として紹介されている。会場では、画中で左に描かれた里見勝蔵に対応するよう左側へ里見作品を、右に描かれた前田寛治に対応するよう右側へ前田作品を配置し、人物と作品が展示空間内で呼応するよう演出されている。

「生命の写実」がたどり着いた境地

 第3章では、帰国後に確立されていく「生命の写実」に焦点が当てられる。前田にとって写実とは、対象を正確に再現することではなく、対象の内部に宿る生命を描き出すことだったという。

前田寛治《ブルターニュの女》(1925)

 《ブルターニュの女》(1925)では、独自の写実に対する見地を感じることができる。民族衣装をまとった女性を真正面から描いた本作では、衣服の下に感じられる身体の量感まで丁寧に表現されている。会場解説では、こうした人体把握はドミニク・アングルに通じる古典的造形性として位置づけられており、西洋古典絵画への深い理解と、前田独自の重厚な写実表現が結び付いた作品として紹介されている。

前田寛治《J・C嬢の像》(1925)

 帰国後まもなく制作された《J・C嬢の像》(1925)は、本展を代表する作品のひとつだ。モデルとなったジャクリーヌ・ショーダンは、前田が滞仏中に親交を深めたフランス人女性。深い赤のドレスをまとい、正面を静かに見据える姿は、一見すると古典的な肖像画を思わせる。しかし、背景には家具や暖炉を思わせる複雑な構成が組み込まれ、人物の存在感をいっそう際立たせている。1925年の帰国後、本作は第6回帝展に出品され、前田は特選を受賞した。留学で培った成果が、日本の洋画界で高く評価されたことを示す記念碑的作品でもある。

前田寛治《裸婦》(1928)

 量感と色彩を重視する「生命の写実」がもっとも鮮やかに示される作品のひとつが《裸婦》(1928)だ。片脚を立てて寝台に横たわる女性の身体の下には赤いブランケットが敷かれ、その赤は画面全体へと滲み出すように広がっている。人物は立体的な量感を備えながら、背景には細かな筆触が密に重ねられ、画面全体に静かな統一感をもたらす。解説で「画面のなかにポエジイを含み持つ前田独自のレアリスムがここに結実している」と述べられていたように、詩情と写実という、一見相反する要素が両立することを示す作品だ。

前田寛治《棟梁の家族》(1928)

 また、労働者を描いた作品群にもその志向はあらわれる。《棟梁の家族》(1928)は、大工一家五人を描いた1作。机を囲む家族は、それぞれ独立した存在感を持ちながらも、画面全体は緻密な構成によって高い統一感を保っている。衣服の赤、背景の青、家具の白が絶妙な均衡を生み、人物同士の関係性までも画面のリズムへと変換している。この作品について、里見勝蔵は「前田の最高能力」と評し、前田自身の写実論が到達したひとつの頂点とみなしていたという。人物の職業や社会的属性を描くのではなく、人間が持つ生命の重さを描こうとする姿勢は、前田作品を象徴する視点でもある。

一九三〇年協会が目指した、新しい洋画運動

 第4章では一九三〇年協会の活動を紹介。1926年、前田は里見勝蔵、林武、佐伯祐三ら若い画家たちとともに同協会を設立した。既存の公募団体とは異なる自由な発表の場を目指したこの団体は、特定の様式を掲げず「生命感のある絵画」を追求。フォーヴィスムから写実まで、多様な表現を認めながら、それぞれが新しい洋画を模索した。

川口軌外《臥する女》(1927〜29)

 展示室ではヨーロッパ前衛の影響を取り入れた川口軌外《臥する女》(1927〜29)をはじめ、長谷川利行《靉光像》(1928)や《汽罐車庫》(1928)など、協会に参加した画家たちによる個性的な作品が紹介されている。日本洋画が写実だけでなくフォービズムなどの多様な表現へと広がった様子が垣間見える。

一九三〇年協会の写真や資料 
一九三〇年協会の写真や資料

 また、会場では協会展の図録や雑誌、資料もあわせて展示され、画家たちが作品だけでなく思想や議論を共有していたことをうかがうこともできる。作品と資料をあわせて見ることで、一九三〇年協会がたんなる作家集団ではなく、日本洋画の方向性そのものを問い直した運動だったことが浮かび上がる。

病床でも描き続けた最後の風景

 最後を飾る第5章のタイトルは、「如何に超越すべきか」。1929年春、首の痛みをきっかけに病が判明した前田寛治は、病床で制作を続け作品を残している。本章では、《海(絶筆)》へと至る風景画や海景画を通して、30年の4月に33歳で早逝するまでの作品をたどる。

前田寛治《新緑風景》(1929)1930年4月に33歳で亡くなる数日前、前田は翌年の帝展出品を見据え、この作品を病室に運ばせて眺めていたという。

 《新緑風景》(1929)は、亡くなる前年に描かれた風景画。柔らかな緑や淡い桃色を重ねながら、樹木や草木が画面いっぱいに広がる。短い筆致が画面全体を覆う一方で、中央には光が差し込むような空間が設けられ、視線は自然と奥へと導かれていく。解説文では、この頃の風景画について「この辺(荻窪)の風景の総合なんだよ」と前田が語っていたことを紹介しており、身近な景色をもとにしながらも、複数の風景を統合した独自の空間として構成されていることがうかがえる。

前田寛治《海(絶筆)》(1930)

 本展の最後には、修復後初公開となる《海(絶筆)》(1930)が配置されている。画面には海と樹木が簡潔な筆致で描かれ、構図の試行が見て取れる。いっぽうで、展示解説では本作を同時期の風景画とは異なる構想を示す作品と位置づけてられており、病床にあっても既存の表現にとどまらず、新たな風景表現を探り続けていたことがうかがえる。

33年という短い生涯が遺したもの

 本展では、初期のスケッチや書簡から、パリ留学、「生命の写実」の確立、そして病床で描かれた絶筆まで、141点の作品と資料によって前田の人生の歩みをたどることができる。「写実とは生命を描くこと」という探究は、完成作だけでなく、制作途中の習作や絶筆にも貫かれていた。本展はその短くも豊かな人生を通覧することによって、前田寛治の日本近代洋画史における存在の大きさを知ることができる機会となるだろう。