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2026.6.14

「秀島由己男展 ダークファンタジー/ミステリアス 水俣が生んだ異才」(熊本市現代美術館)レポート。独創の作家の足跡と、それを育てた風土

熊本市現代美術館で、画家・版画家の秀島由己男(1934〜2018)の四半世紀ぶりの回顧展「秀島由己男展 ダークファンタジー/ミステリアス 水俣が生んだ異才」が開催されている。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(編集部)

秀島由己男《霊歌〈祈り〉》(1991)。秀島が黒人霊歌をモチーフとして制作し続けた「霊歌」シリーズのひとつで、珍しい油彩画
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 熊本市の熊本市現代美術館で、画家・版画家の秀島由己男(1934〜2018)の四半世紀ぶりの回顧展「秀島由己男展 ダークファンタジー/ミステリアス 水俣が生んだ異才」が開催されている。会期は6月21日まで。担当は同館学芸員の冨澤治子。

会場エントランスより。メインビジュアルは秀島の写真を中心に、虫や植物、石などの好んだイメージが配されたものとなっている

 秀島由己男は1934年熊本県水俣市出身。若くして両親を亡くし、中学卒業後すぐに就職した。そのため、絵画制作はほぼ独学だったものの、美術評論家・土方定一(1904〜80)、洋画家・海老原喜之助(1904〜70)、版画家・浜田知明(1917〜2018)、歌人・安永蕗子(1920〜2012)、詩人・高橋睦郎(1937〜)などに認められ、活躍していくことになる。作家・石牟礼道子(1927〜2018)の著作の挿絵も多く手がけ、ふたりは互いに世界観を深め合う関係でもあった。

秀島由己男《鳥とはなす石牟礼さん(熊日連載「風の舟」挿絵)》(1994)。秀島自伝の連載「風の舟」の挿絵として描かれた石牟礼道子の顔。身の回りの親しい人を秀島は頻繁に作品に登場させた

 秀島は2018年に急逝する。未整理のまま残されたのは約2200点の代表作品とその原版、試作などの未発表作、制作のための資料、そして収集した美術品や工芸のコレクションだった。これらは遺族により、最期の居住地だった熊本県和水町に寄託。その後、和水町と熊本市現代美術館との共同作業により調査が進められてきた。本展はこの調査の成果を発表する場となっており、1950年代から2010年代の秀島の画業の全貌を260を超える出品点数で振り返るものだ。

独学での研鑽を経て美術界から評価

 本展は全8章で構成されている。第1章「はじまり─水俣」は秀島の出生から美術家として頭角を現すまでの経歴を辿る。

 水俣市の花街にある貧しい家庭に生まれた秀島は、高校進学を望めず映画館や米屋の職を転々とするが、馴染めずに無職となる。このとき、出身の水俣第一中学校の美術教師・長野勇が開いていた無料の画塾と出会い、秀島は水彩画を学ぶことになる。その後、長野の計らいで母校の事務補助職員に就職。勤務をしながらペン画を描く生活を送るようになり、やがて18歳のときに熊本県水彩画展で最高賞を受賞した。

 23歳のときには東京から帰郷した浜田知明に師事し、銅版画の技術を学ぶ。そして29歳、海老原喜之助や土方定一らの審査により第19回熊日総合美術展でK氏賞を受賞。美術家としての地位を確立した。

右が水彩の秀島由己男《静物》(1953)、左が木炭によるクロッキーと思われる作品名不詳の肖像画(1956)
左から秀島由己男《キリストと民衆》(1961)、《霊歌(仮面A)》(1962)。黒人霊歌とともにキリスト教の信仰への関心もうかがえる

 会場では秀島の10代後半〜20代前半の作品として、水彩の静物や木炭クロッキーによると思われる肖像画、抽象的なペン画などが紹介されている。なかでも注目すべきは、生涯の画業を通じて繰り返しに出てくる、大きな口を開けた人物の記号化されたモチーフが描かれた《霊歌(仮面A)》(1962)だろう。

 秀島が事務補助職員としての勤務中、用務員室の隣にある音楽室のレコードプレイヤーから聞こえてきたのが、マリアン・アンダーソンをはじめとする黒人霊歌だったという。そこに普遍的な人間の悲しみを感じ取った秀島は、霊歌を歌う人物の姿を自身の作品に登場させるようになっていった。

秀島が所蔵していた博多人形(制作年不明)。「霊歌」シリーズのモチーフとの関連が指摘できる

「霊歌」モチーフと独自の世界観の確立

 第2章「霊歌、彼岸花、蝶紋」では、1964年に事務補助職員を退職、熊本市に移り画業に専念して以降の秀島の作品を紹介。66年に初個展「第1回秀島由己男展─ペンに依る黒の歌─」(南天子画廊、東京)を開催。以降、銅版画や、テンペラと油彩の混合といった手法を試みるようになる。

秀島由己男《霊歌(祖霊の国)》(1965-68)。ペン画でひしめくように合唱するモチーフが描かれている

 この時期には口を開けた人物をモチーフとしたペン画の「霊歌」シリーズが数多く制作されたほか、キャベツやカボチャといった野菜や、木々や屋根を描いた風景などがモチーフとなっている、緻密な油彩画も描いている。

 70年代に入ると、秀島は様々な表現者とコラボレーションを行う。土方定一の童話集『カレバラス国に名高き かの物語』(1972)の挿絵や、石牟礼道子との詩画集『彼岸花』(1973)、歌人・安永蕗子との歌画集『蝶紋』(1977)などが刊行。会場にはそれらの原画が並ぶ。

左から秀島由己男《太郎〈燈籠〉(詩画集『彼岸花』)》《花子(詩画集『彼岸花』)》《少年(詩画集『彼岸花』)》(すべて1973)。左2点はメゾチント、右はエッチングとアクアチントを組み合わせており、多彩な版画技術を有していた

 とくに『彼岸花』に掲載された人体に貝殻や玩具といったモチーフを配したメゾチントは、ひと目見て強い印象を残す超現実的な世界が表現されており、単体の作品としても魅力的だ。『彼岸花』は高い評価を得て、国内館のグループ展への出展のみならず「アート・バーゼル」への出品や、フィンランド、イタリアでの紹介なども行われた。石牟礼と秀島の関係はその後も長く続き、以降も石牟礼の書籍の表紙や挿絵を秀島が手がけたり、あるいは秀島が自作の命名を石牟礼に頼むなど、互いの創作を認め合っていた。

 1984年、秀島は新宿の旧瀧口修造邸へと移り住み、東京を拠点に活動を始めるも、3年ほどで熊本に帰ることになる。第3章「静物考」では、この時期の秀島を代表する、詩人・高橋陸郎と制作した詩画集『静物考』などを紹介。原画からは、メロンやキャベツ、サンマといった静物を緻密に写し取る、秀島の到達したエッチングの技術の高みが伝わってくる。

左から秀島由己男《霊歌(ヒロシマ)A》(1988)、《霊歌B》(1986)。左は《霊歌(祖霊の国)》(1965-68)のイメージを使用しつつ、原爆ドームを組み合わせている

 また、89年には「広島、ヒロシマ、HIROSHIMA─国内外の制作委託作家78名によるヒロシマの心─」展に出品。その出品作《霊歌(ヒロシマ)A》(1988)は、秀島のアイコンともいえる口を開けた人物のモチーフが、頭蓋骨と原爆ドームの後ろに並んでいる。「霊歌」のアイコンが、直接的に平和への願いに結びついた一例といえるだろう。

熊本、そして水俣の人として

 第4章「われらにさきかえてきたりしもの、風の舟」は、1990年代の秀島の活動を辿るものだ。秀島は91年にベルギーを訪れ初の海外経験を得る。このときの経験から、95年の大川美術館での個展に出展した作品にはブルージュの街並みが登場する。また、この個展を見た高橋陸郎から誘いを受けて、詩画集『われらにさきかけてきたりしもの』が発表され、アルフレッド・ヒッチコック『鳥』(1963)からの影響を受けた、鳥がモチーフとして頻出する作品をつくり上げた。 

左から秀島由己男《Ⅱ(詩画集『われらにさきかけてきたりしもの』)(1997)、《Ⅰ(詩画集『われらにさきかけてきたりしもの』)(1997)。ブルージュの街並みと鳥のモチーフが組み合わされている
左から秀島由己男《鳥たちと母のまぼろし(熊日連載「風の舟」挿絵)》、《鳥とはなす石牟礼さん(熊日連載「風の舟」挿絵)》(ともに1994)。左は21歳のときに亡くなった母の肖像

 また、この時期には自伝の連載『風の舟』の挿絵としてつくられた、親しい人々の肖像画を描いた同名のシリーズを発表。さらに石牟礼道子の新聞連載小説『春の城』の挿絵シリーズへとつながる。故郷の水俣の人や風景を、秀島の独特の解釈によって、夢と現実のあわいにあるような世界を構築していった。秀島の作品には、直接的に水俣病と関連するものはないが、故郷が受けた被害への寄り添いや、その後の運動へのささやかな帯同は、こうした故郷と個人史を結びつけるなかに見出せると言える。

秀島由己男《空蝉シリーズ》(2004)。会場では50点組のうち35点を展示
左から秀島由己男《キャベツ(未完)》(2010代?)、《卓上の白い静物─もうひとつの世界─(未完)》(1985-2013)。右は卓上の卵やレモンに猫やイグアナを加筆している

 第5章「前向きな未完と加筆」は、2000年代以降、逝去するまでの様々な技法を使った実験的な作品を紹介。写真に自身が好んだ虫、花、卵、頭蓋骨といったコラージュを加え、作家自身を登場させた「空蝉」シリーズを制作したほか、過去に描いた静物画に加筆して新たな作品を生み出すなどの活動を行った。

左から秀島由己男《霊歌〈想い〉》(1972)と写真資料

 秀島が2018年に逝去したのち、和水町と熊本市現代美術館によって、その遺品から創作の裏側が紐解かれていった。第6章「創作の舞台裏」では、見つかった写真群を展示することで、秀島の制作に写真が深く関係していたことを、実作と写真を並べながら読み解いている。

左から海老原喜之助《作品名不詳(人物水彩デッサン)》(制作年不明)、浜田知明《狂った男》(1962)。海老原から線描画を、浜田から版画を学んだ

 第7章「師や友との交流」は秀島が所有していた、親しかった作家たちの作品を紹介。秀島が師として仰いだ版画家・浜田知明、画家・海老原喜之助の両作家の作品に加え、浜田に秀島を紹介した境野一之(1900〜89)の色彩豊かな作品も今回発見された。さらに、石牟礼道子のイラストのコピーに秀島が着彩したものや、熊本の同世代画家である梅本妙子(1922〜2003)や渕田安子(1933〜)の絵画やデッサンなども発見。熊本における秀島の交友関係をうかがうことができる。

 最後の第8章「自己研鑽のための美術・工芸コレクション」では、秀島が集めていた作品を展示。ジャック・カロ(1592〜1635)やジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720〜78)のほか、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828)、ウィリアム・ホガース(1697〜1764)、オーブリー・ビアズリー(1872〜98)といった作家の作品も見つかった。ほかにも多くの浮世絵を集めており、その構図や画題に関心が注がれていたことがわかる。

左からジャック・カロ《聖アントニウスの誘惑》(1635)、ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージ《ローマの景観 61葉 真実の口広場のキュベレ神殿》(制作年不明)

 なお、本展では8.5章「エロス」として、注意書きを付すかたちで仕切りを設け、秀島の性への興味がうかがえる作品やコレクションも展示。男性の裸体や、乳房や臀部といった直接的なモチーフが表れた作品、そして春画のコレクションなども紹介されており、秀島の興味の方向の多様さを感じることができるはずだ。

 和水町と同館の綿密な調査によって、秀島由己男という作家の来歴を研究成果とともに発表した本展。そこからは独特の作品世界とともに、故郷・熊本にあった、教師、作家、詩人といった文化に携わる人々の豊かなネットワークも見えてくる。貧しさゆえ、中学卒業後すぐに就職しなければならなかった秀島の才覚を見出し、ひとりの美術家として育て上げたのは、海老原や浜田といった師のみならず、この風土があってこそだったと感じられる。本展は秀島の類稀な活動を振り返るのみならず、アーティストが育ち活躍できる場の在り方についても、考えさせてるものとなっている。