美術家・鴨治晃次インタビュー。ポーランドで66年間探し続けた「存在の感覚」
ポーランドを拠点に活動を続ける美術家・鴨治晃次。その日本初の個展「鴨治晃次 展|不必要な物で全体が混乱しないように」が、ワタリウム美術館で6月22日まで開催されている。鴨治にとって66年ぶりの帰国展ともなる本展にあわせて、ポーランドでの制作活動やその哲学について話を聞いた。

66年ぶりの帰国
──ポーランドを拠点に活動されている鴨治さんですが、今回のワタリウム美術館での展示は66年ぶりの帰国展になるとのこと。まず、鴨治さんの経歴を教えてください。ポーランドに渡られたきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
僕は1953年から58年にかけて武蔵野美術大学で学び、その後伯父である歴史学者・梅田良忠の影響を受けて、船でポーランドへ移りました。梅田は1923年から戦争が始まる39年頃までワルシャワで暮らしていたようで、戦後日本に帰ってきた際に直接知り合うこととなりました。当時中学生だった僕と親しくしてくれて、ポーランドのことも含めて色々な話を聞かせてくれました。大学を卒業し、ポーランドに渡ってからはもうずっとそこで生活をしていますね。

──ポーランドへ渡った後はワルシャワ美術アカデミーに入学し、美術の勉強を続けられた。その後の転機はどのようなものだったのでしょうか?
ポーランドでは6年間美術の勉強をしたのですが、修了制作で発表した作品に同地のフォクサル・ギャラリーが関心を持ってくださり、「展覧会をやらないか」という話に。その翌年に展覧会を開催するに至りました。当時ワルシャワに日本人は自身を含めて6名くらいしかおらず、しかも自分より歳上の学者がほとんどでしたね。ただ、現地の芸術家仲間とは親しくしていましたよ。その当時一番良い作家がフォクサル・ギャラリーで仕事をしていましてね。画家で劇作家のタデウシュ・カントルとか、同じく画家のヘンリク・スタジェフスキです。彼らからは様々な刺激を受けました。
──ヘンリク・スタジェフスキといえばポーランド・アヴァンギャルドの先駆者として知られています。具体的にどのような親交があったのでしょうか?
ヘンリク・スタジェフスキからは、制作に対する考え方や仕事への向き合い方などアーティストとして大切なことを教わりました。彼は毎日フォクサル・ギャラリーのすぐそばにあるコーヒー屋にいるのですが、いつも自分の考えを小さな紙に書く。そしてそれを近くに座っている人にくれたんです。僕もいくつかもらったことがありましたし、とてもおもしろいと思っていました。例えば、僕のなかでとくに記憶に残っているのは「少しずつ変われ」という彼の言葉です。まさに彼の本質を表すような言葉だと思いましたね。話していると次第に内容はを忘れてしまうものだけど、家に帰ってその紙をもう一度読み直したりしていました。本のあいだに挟んでおいたり、何十年経ってもまた読み返したり。彼のそういったところがとても好ましいと感じていました。
──「少しずつ変われ」というのは非常に抽象的な言葉ですが、受け取る側としては考えさせられます。
この言葉をどう受け取るかはその人自身に委ねているんじゃないかな。彼は自分よりも30か40くらい歳上でしたが、そんなことは感じさせない人柄でしたね。
