2026.7.7

地域レビュー(中国):筒井彩評「CONNEXIONS|コネクションズ―接続するアーティストたち」(鳥取県立美術館)/「藤原勇輝個展 海―畏怖の念」(アート格納庫M)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では筒井彩(ふくやま美術館学芸員)が、「CONNEXIONS|コネクションズ―接続するアーティストたち」(鳥取県立美術館)と藤原勇輝個展 海―畏怖の念」(アート格納庫M)という比較的新しいスペースで開催された2つの展覧会を取り上げる。

文=筒井彩

「CONNEXIONS|コネクションズ―接続するアーティストたち」(鳥取県立美術館)の展示風景より、高嶺格《脱皮的彫刻》(2026)
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 おそらく中国地方の入り口と言ってもいいだろう、もっともアクセスが良い岡山駅から、特急「やくも」に乗って山陰地方に向かう。米子駅から見える日本海の景色は、春の海というにしては力強く、深い色だった。今回、鳥取県の中部に位置する倉吉市を訪れたが、「中央と周縁」に集約されない地域のあり方を模索している様子がうかがえた(*1)。

7組の作品から見出す美術館の役割

「CONNEXIONS|コネクションズ―接続するアーティストたち」(鳥取県立美術館)

  2025年3月に開館した鳥取県立美術館は、ちょうど開館1周年を迎えるタイミングで、初の現代アート展である「コネクションズ」展を開催した。地方公立美術館において現代アートの展覧会を、しかも国内外の作家を交えたグループ展を開催することは、様々な課題を伴うだろう。しかし、鳥取県立美術館は根本的な問いである、そもそも地方公立美術館が過去のものを保存する機能にとどまるだけでなく、社会とどのように向き合い、またどのような立場を示すことが可能かどうか、という美術館の可能性に向き合うことで、アートの枠組みのなかで一地域として消費されることのないひとつの活路を見出している。

mamoru《NEVER BE NO VOICE / 声を挙げ、絶やさない》(2026)の展示風景 写真提供:鳥取県立美術館

 「コネクションズ」という展覧会タイトルが示す通り、この展覧会では7組のアーティストが様々なものをつないでいる(*2)。普段は目に見えない人と人のつながりを見せてくれたのは、mamoruによるプロジェクト「NEVER BE NO VOICE / 声を挙げ、絶やさない」から生まれた映像とサウンドによるインスタレーションだ(*3)コロナ禍で人々の生活やコミュニケーションの分断が生まれるなかで、「声」を通して他者との関係がどのように保たれ変化していくのかを探る様子が映像に収められている。このワークショップの映像を見ていると、次第に、参加者たちが情報の伝達手段として声を用いているのではなく、わずかな視線の動きや息遣いなど、身体全体を使ったコミュニケーションをとっている様子が見えてくる。記号的な情報のやりとりが当然のこととなり、日常的に多かれ少なかれなにかしらのコミュニケーションを取らざるをえない状況にある昨今において、なぜ、私たちは人とコミュニケーションを取りたいと思うのか。ふと立ち止まり、人と向き合う時間の重みと、見落としがちな生身の人間が持つ情報量を思い出させてくれた。

能登半島地震で被災して公費解体された家屋の木材を製炭した炭で描かれたSIDE CORE《my head under the ground》(2026) 写真提供:鳥取県立美術館

 人と人とのつながりや、コミュニケーションのあり方を考えさせる作品があるいっぽう、地域と地域をつなぐ展示もあった。SIDE COREは、都市や公共空間を新たな視点で見つめ直し、日常のなかで見過ごされてきた社会の構造や出来事を可視化するとともに、実際に身体的に介入することで公共圏を拡張する試みを行ってきた。今回の展示では、夜間工事で用いられる点滅灯を用いた「rode work」シリーズに加え、能登の廃材を用いた壁画や京丹後のレジデンスを通して制作された映像作品などが並ぶ。東京、能登、京丹後を鳥取の地でつなぎ合わせているのだ。

 普段、都内で人知れず行われている夜間工事の様子を東京のスペースで展示することは、まさにその場で不可視のインフラを可視化する行為だろう。しかし、それを鳥取で展示する場合、また異なる構造になるのではないだろうか。狭い空間の工事で、大仰に高密度で光る工事灯は、東京ではいままで気づかずに見えていなかったものだろうが、人口密度が低く道幅も広い鳥取では、実際に見る機会の少ない情景であり、それ自体が持つ意味合いが変質している。不可視の構造を可視化するという批判的な姿勢を保ちつつも、鳥取でのSIDE COREは、各地域の表情をどこか神話的で、象徴的な手つきで、掬い上げているように見えた。場所と場所をつなぐことで変わるのは、その場所や素材だけではない。作家の立ち位置が変質することもあり得るのだ。

足場から見た高嶺格《脱皮的彫刻ー鳥取編》(2026) 写真提供:鳥取県立美術館

 最後に、鳥取県に潜む社会的課題を炙り出した作品を取り上げたい。高嶺格の《脱皮的彫刻ー鳥取編》(2026)は、展示室に整列したパイプ椅子に人型の石膏が並んで座る作品だ。一種異様な雰囲気をまとっているが、それが鳥取県立美術館の開館式の様子を再現していることを知った瞬間、その異様さは別の意味合いを帯びる。パイプ椅子が並んだ先には足場が組まれ、展示室を一望できるようになっている。その足場には、開会式の記念写真が置かれ、目の前の石膏群が開会式出席者の抜け殻であることに気づく。一見、全員が小さく笑顔を向ける朗らかな瞬間のように見えるが、男女比の不均衡さを指摘する高嶺のテキストを読んだ瞬間、心が少し冷たくなるような思いがした。100名以上参列するなかで、女性はわずか6名という。女性が座っていた場所は、ほのかに銀色に輝いているが、よく目を凝らしてみないと見つからないほどの存在感だ。

 作品を通して、筆者は自身が中国地方に移り住んだ当初のことを思い出した。管理職の性別のアンバランスさ、年下の女性というだけで向けられるタメ口、プライベートへの言及、小さな違和感があった。しかし、こうした環境下で数年過ごしていると、次第にそうした違和感や心のしこりは「そういうもの」としてやり過ごされていく。高嶺はなにも声高にマニフェストの主張や、運動の呼びかけをしているわけではない。しかし、高嶺作品と対峙することで、忘れていた感覚を呼び起こされた者もいるだろうし、心に積もっている違和感を再認識する者もいるだろう。そして、その体験によって勇気づけられたり、救われたりすることもあるのではないだろうか。

 美術館の役割のひとつに、展示や作品を見た人がどのような変化を得られるか、があると思う。美術館を訪れる人は、思考のためのヒントやきっかけを通して、新たなものさしを手に入れることができ、世界を新たな目で見直したり、孤独でないことを感じたりできる。日本で「ほぼ最後」に開館したとされるこの県立美術館は、社会と、人と、地域との向き合い方を改めて見つめ直し、そうした美術館の役割を真摯に体現しようとしていた。

*1──今回取り上げた2ヶ所以外にも、近隣には独特の建築を生かした「円形劇場くらよしフィギュアミュージアム」がある。また筆者は時間の都合上訪れることがかなわなかったが、もし倉吉を訪れることがあれば、本屋「汽水空港」にもぜひ足を伸ばしてほしい。
*2──遠藤薫、マリアンナ・クリストフィデス、SIDE CORE、刷音、高嶺格、mamoru、ムセオ・アエロ・ソラールの7組。
*3──《声を挙げ、絶やさない – 風吹き、霧立ちこめるとき、蜂の羽音がきこえる》(2026、シングルチャンネル・ビデオ、4K、ステレオ)、《声を挙げ、絶やさない – 声(々)にまつわる思索、2021–2025》(2026、シングルチャンネル・ビデオ・エッセイ、4K、ステレオ)

海を起点に考える「怖いもの」

藤原勇輝個展「海―畏怖の念」(アート格納庫M)

 鳥取県立美術館から西に15分ほど車を走らせると、工場が立ち並ぶエリアに入る。空が広くすっきりとしたこのエリアには、創業70年以上の歴史を持つ業務用品商社、株式会社丸十が運営するアート・スペース「アート格納庫M」がある。2024年にオープンし、今後県立美術館とともに倉吉のアートシーンを牽引していくだろうこのスペースでは、鳥取を拠点に活動する藤原勇輝の個展が行われていた。

手前は常設展示の原口典之《Oil and Water》(2003)。奥の空間で奥の空間で藤原勇輝の個展「海―畏怖の念」展が行われた 写真提供:アート格納庫M

 日本海側に面している鳥取にとって「海」は強く、深く、恐ろしいものなのだろう。瀬戸内の対極をなす力強い満ち引きは、人智を超えた自然の恐ろしさと、その向こうに存在する近隣諸国との緊張感を想起させる(実際、筆者が鳥取を訪れた際も、ちょうど北朝鮮から日本海に向けてミサイルが発射されたという緊急速報が流れた)。

 これまで、韓国の済州島と日本の関係に基づいたアート・プロジェクト「4・3 Art Project―逆走して歴史と出会う―」(*4)を通して、日本海とそれを隔てた隣国と向き合ってきた藤原は、この展示で「海」をひとつの起点に「怖いもの」を取り上げている。「怖いもの」には、大きく分けて「現実的な恐怖」と「イマジナティブな恐怖」の2種類があるとし、前者をミサイルや原発といった核と、後者を山陰地方に根付く怪談「飴買い幽霊」(*5)と結びつけている。いずれにしても乗り越えがたい恐怖であるが、政治問題に終始しないところにユーモラスな姿勢が垣間見える。

展示の中心となった《Candy pool》(2026) 写真提供:アート格納庫M

 実際、会場には放射能マークをモチーフとしたFRPの作品や、近隣の社会主義国の国旗を想起させる色合いの平面作品があるいっぽう、中央に設置されている《Candy Pool》(2026)には水飴が用いられ、「飴買い幽霊」との接続を試みている。粘性を感じさせる黒いプールと、糸を引くようにして滴る吊り下げられた鉄板からなるこの作品は、暗く静かだが、どろりとした質感が強い力を感じさせ、そこはかとなく不穏な雰囲気を放っている。展示室内には、常設作品である黒い廃油と水のプールからなる原口典之の《Oil and Water》(2003)も並んでいる。一見、原口へのオマージュかと思うほど類似した形をとっているが、油と水、そして水飴の粘性の対比がより目を引く。

 両国間に横たわる日本海は、絶えずそれぞれの政治情勢とその変遷を見守ってきた。日本海は、障壁になることもあれば、守ってくれる存在にもなりえた。時代によって各国の事情があるだろうが、それは地球上の小さな人間たちの視点に立った物語なのであって、いまも、未来も、日本を囲む海と、その向こうの陸地は変わらず存在し続けている。

*4──詳細については以下。https://www.43artproject.net/ (最終閲覧日:2026年4月7日)南朝鮮軍などの島民虐殺事件をテーマに済州島から日本へ亡命してきた人々の足跡を、逆に日本からさかのぼっていくことを試みている。
*5──島根県松江の大雄寺を舞台とする怪談で、かつては小泉八雲も興味を持ったという。毎晩、飴を買いにくる女性を怪しんだ飴屋の店主が後をつけて行ったところ、墓地にたどりつき墓から母乳の代わりに水飴を舐める赤子が見つかったという話。死してもなお幽霊となって赤子を育てるというところから、母の愛の強さを示す怪談としても知られる。