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2026.7.5

地域レビュー(関西):大槻晃実評「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)/「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では大槻晃実(芦屋市立美術館学芸員)が、白髪一雄の妻として評価されがちだった白髪富士子をひとりの芸術家として取り上げた「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)と、戦後日本画における前衛運動を体系的に紹介する「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)の2展を取り上げる。

文=大槻晃実

「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)会場風景 写真提供:京都市京セラ美術館
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戦後美術、2つの前衛の軌跡から見えてくること

裂け目に走る「筋」がやがて「道」となるように

「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)

 白髪富士子の活動期は1955年から61年の6年間と限られ、作品も多く残っていない。白髪一雄記念室で開催された本展は、具体美術協会(具体)の会員として活動したその短い時間に焦点を当て、富士子を作家としての軌跡と生活者としての輪郭の両面から照らし出す展示構成となっていた。

「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)展示風景。左から白髪富士子《無題》(1955頃)和紙 108×77.5cm 個人蔵、白髪富士子《無題》(1960)キャンバスに和紙、油彩 73×91cm 個人蔵、白髪一雄《天富星撲天雕》(1963)尼崎市蔵 写真提供:尼崎市総合文化センター

 最初に展示される《無題》は、1955年に東京の小原流会館で開催された第1回具体美術展出品作と同様の手法で制作された作品である。白い和紙を破り、貼り重ねるというシンプルな行為は、紙に折れや溝を生み出し画面へ刻みこんでいる。皺のように起伏する画面が光を受けて生み出す影の濃淡は、手の動きの痕跡を地形のように浮かび上がらせていた。

 本作が制作された1955年は、松の木が複雑に入り組んだ広大な芦屋公園で「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」が開催された年でもある(*1)。富士子は10メートルの板をのこぎりで縦に裁断して裂け目のような筋をつくり、白く塗ってかすがいで留めた《白い板》を出品した。太陽光のもと、地面には板と板の隙間からすり抜けた一筋の強い光が射していただろう。その光景は、のちに富士子が機関誌『具体』に記した「何もない天空に一筋、裂け目をつくりたい」という言葉に通じる原体験だったと推測する。さらに彼女は「みる人が畏怖と放心に落ちこむもの。その、天空を走る裂目は私自身の観念であった」と述べる(*2)。この言葉は、実直に観念へと向かう彼女の衝動を示すものだ。

 その「裂け目」としての観念は、1957年頃の2点の《無題》では「線」として展開する。藍色の背景に白い絵具を流すことで生じた直線がいくつも走るこの2点は、上下につながるように一致する筋がありながら、完全には合致しない線も存在する。そのわずかな「ずれ」が、絵画が単なる視覚的に捉えるものから逸脱し、観念の揺らぎそのものを孕んでいることを物語っているように感じられた。この表現の移行は、富士子の心に思い浮かぶ像がより繊細に、そして深度を増していく過程として読むことができるであろう。

「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)展示風景。左から白髪富士子《無題》(1957頃)紙 165×91cm、白髪富士子《無題》(1957頃)紙に顔料 165×91cm、白髪富士子《無題》(1957頃)紙に顔料 165×91cm 写真提供:尼崎市総合文化センター

 1960年頃の《無題》は、そこからさらに大きな転調を見せていた。和紙を重ね、ガラス片や複数の色を沈ませるように塗り込んだ画面は、渦のように複雑で、触覚的な厚みをもつ作品へと変貌している。ここでは、もはや一筋の線に還元できない「世界そのもの」の生成が見て取れる。

 翌61年、富士子は制作をやめ、夫であり「具体」の主要メンバーであった白髪一雄の画業を支える道を選んだ。その決断を「自分の生をどう歩むか」という、富士子が選んだ主体的な行為として捉えたい。会場に展示されていた家族写真や幼少期の絵などの資料が伝えてくる丁寧に過ごした日常や、一雄との支え合っていた関係は、その選択を悲劇的に写してはおらず、その決断の穏やかな必然を裏打ちしていた。

 本展は、作品と資料を往復させながら、白髪富士子という人物像を象っていた。和紙の皺、垂直の線、物質の堆積は、6年間という短い時間のなかで生まれた、富士子の確固たる表現である。作品に向き合うことを選び、いずれ制作を離れることも選んだ。裂け目に走る「筋」がやがて「道」となるように、制作と離脱の両方に、富士子の揺るぎない意志が一貫して通っていたのだと思う。

 会場である白髪一雄記念室は、今春から約5年間の休室に入った(*3)。会場となったこの場所が、富士子の個展でいったん幕を下ろすことは、制作を離れるという彼女の選択と呼応しているように感じた。閉じることは終止ではない。次の時間へ向けて場を更新するための節目でもある。

*1──1955年8月に芦屋川沿いの芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」は、芦屋市美術協会と芦屋市が主催した展覧会として開催された。出品者の約半数が「具体」会員や関係者であり、事実上の「具体展」とみなされる。
*2──白髪富士子「野外展前後の私」『具体』第3号、1955年10月20日、23頁
*3──尼崎市総合文化センターは耐震化工事のため、令和8(2026)年4月1日から長期休館した。その間、白髪一雄記念室も休館。今後の予定は未定となっている(ただし、休館中も問合せ等には対応するという)。https://www.archaic.or.jp(2026年6月17日最終アクセス)

 伝統を悼むためではなく

「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)

 展示室で筆者は、作品に引き留められるように、なかなか先へ進むことができずにいた。膨大な作品と関係資料が並ぶ会場には、戦後の京都で「新しい日本画」を切り拓こうとした作家たちの熱気が、いまなお色濃く漂っている。阪神間における前衛美術の活発な動きといえば、研究会「現代美術懇談会」(ゲンビ)(1952〜57頃)や具体美術協会(具体)(1954〜72)がよく知られているが、それ以前に京都の日本画界では、既存の枠組みを横断的に問い直す思考の「場」がすでに形成されていた。

「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)会場風景 写真提供:京都市京セラ美術館

 本展は、創造美術(1948〜51)、パンリアル美術協会(1949〜2020)、ケラ美術協会(1959〜64)という、日本画の前衛運動を担った3つのグループの動向を軸に構成されていた。彼らが目指したのは、従来の日本画を、そしてその制度の内部や制作の前提条件そのものを問い直すことであった。保守的な画壇への異議申し立てを出発点としながらも、彼らの関心は次第に、「世界とどう向き合うか」「現実をどう捉え直すか」「素材とはなにか」といった問いが、具体的なかたちをもって展開していく。

 展示室では、作品と関係資料が丁寧に並置され、当時の彼らの思索を深めた時間と果敢に挑戦した実践が行き来する過程を浮かび上がらせていた。伝統的な表現と戦後の前衛的な試みが隣り合って展示されることで、作家たちの動向の変化が立体的に伝わってくる。新しい日本画を目指した彼らの実験的精神と、その醸成に費やした時間のなかで、いかに多くの挑戦が積み重ねられてきたのかをあらためて考えさせられた。

 その背景として重要なのが、戦後に盛んに論じられた「日本画滅亡論」である。技巧に偏り現実から遊離しているという批判は、伝統をただ否定するためのものではなく、日本画がどのように生き続けることが可能かを問い直すための起点であった。制度の見直しや現実との接続、国際的な視野の獲得といった課題が、批判のかたちを取りながらも、日本画の新たな再生の方向を指し示していたのである(*4)。

秋野不矩《少年群像》(1950)紙本着色、三曲一隻屏風  117.7×147.5cm 浜松市秋野不矩美術館蔵 写真提供:京都市京セラ美術館

 創造美術の秋野不矩による《少年群像》(1950)は、自身の息子をモデルに新しい造形表現を人体表現によって追求した作品で、現実のモチーフを描くことで現代性を導き出そうとする姿がうかがえる。パンリアル美術協会は、しばしば挑発的な宣言文のイメージが先行しがちだが(*2)、大野俶嵩《緋 No.24》(1964)からは、素材や視覚の再編に強い関心を寄せていたことが見えてくる。さらにケラ美術協会の榊健《Opus.63-4》(1963/1990)では、折り曲げられた支持体の布が平面という前提を揺るがし、日本画の抽象が向かい得た別の可能性を示している。それはジャンルの拡張というより、表現の前提条件をいったん解きほぐす行為に近い。

大野俶嵩《緋 No.24》(1964)板に布 141×129㎝ 京都市美術館蔵 写真提供:京都市京セラ美術館
榊健《Opus.63-4》(1963/1990)木に布、顔料 115.8×88cm 写真提供:京都市京セラ美術館

 こうした試みは、伝統を悼むためではなく、その先に立ち上がる日本画の可能性に向けて、地盤を自ら築こうとする運動であった。本展は、彼らの動向を振り返り捉え直す機会を提供すると同時に、その連なりを現在へ手渡す場として、重要な意義を示していた。

*4──福田里和「戦後初期における「日本画滅亡論」の展開」『日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970』展図録、京都市京セラ美術館、2026年
*5──「パンリアル宣言」パンリアル美術協会、1949年5月(『日本画アバンギャルド』展図録、京都市京セラ美術館、2026年、67頁所収)